しかし、現代では芥川の「猿蟹合戦」みたいに桃太郎が裁かれる可能性もある・・・。

 

 

 
 ( ゚Д゚)こんな記事書いた後、ジョーカーに憧れているという青年の事件が起こった。
 

 

 

 

 「見ざる聞かざる言わざる」を教条とする、見て見ぬふり(人間的価値を内包しない不作為)は、不作為による作為と言えるのではなかろうか?。

 思想・良心の自由でも、沈黙の自由が問題となるケースがある。

 

 代表的なのは、名誉棄損表現に裁判所が命じる救済としての謝罪広告である。これは、表現者が相手の名誉を害したことを認め謝罪するという内容の広告を、裁判所が発表させるものである。学説では「謝罪」を表明させるのは、「思想・良心の自由」に反するとする説が有力であるが、判例では憲法に違反しないとしている。

 真実性が問題となるが、私は実像と異なるものなら謝罪すべきものだと思うが、謝罪せず、闇の投影を権力により選択の余地なく一方的に押しつけ、みなが沈黙するなら道化が生まれるのではなかろうか?と思う。

 不作為による作為により、声が届かない社会では、社会に笑われる存在である道化は奴隷の反乱のような抵抗をしめしてもおかしくない・・・。

 社会に声が届く存在として受け入れらた道化は、時折、みなを笑わせるため王様も風刺して笑いを生んでいたが、反国王・反社会のため死刑宣告を受け、処刑され、生け贄となったこともある。笑われる存在である道化はこのときはみなを笑っていたのではないか?と思う。