「 人が突然消える携挙という現象も一種の分岐と言えるのではなかろうか。しかし、『世界五分前仮説』のように消えた人間のことを人々が覚えているのか疑問に思う。」と書いたが、逆に、分岐した世界を経験した人間が、過去に戻ってもそのことを記憶しているのか疑問に思う。

 

 J.S.ミルは「満足した豚であるより、不満足なソクラテスでありたい。なぜなら、愚者は物語の片面しか知らないが、賢者は両面を知っているから」と述べている。また「高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただ一つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである」とも述べている。

 

 福沢諭吉は「あたかも国は政府の私有にして、人民は国の食客たるが如し」と政府を批判したが、その気質は現代も変わりない。まるで、「ミノタウロスの皿」にでてくる人間のようだ。

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 ダイヤモンド博士の『ヒトの秘密』という番組で、博士が「家畜の脳みそは野生の同じ種の脳みそと比べて小さい」と言っていたが、食客にとって政権擁護は飯の種で、生殺与奪の権を握られているのと同様だから、その他の選択肢を考えることもできず、脳みそが委縮して小さくなっていくのだろう。

 五億年ボタンでも記憶を持ったまま、ボタンを押す前に戻るなら押したいと思うだろうか?。幸いなことに、人間は未来のことはわからなくても過去のことは記録があれば知ることができる。しかし、その記録さえ消去し、覚えていないなら・・・。

 覚えていない、または記録をすり替えられたなら、スネ郎君みたいに16連打してしまうかもしれない。