初代キリスト教教会の教父アウグスティヌスは時間についてこういう言葉を残している。
「時間とはなんであるか。だれも私に問わなければ、私は知っている。しかしだれか問うものに説明しようとすると、私は知らない」(『告白』第一巻第十四章)
タイムトラベラーの物語で、タイムパラドックスの解消にパラレルワールドがよく使われている。
分岐前の状態はまるでシュレディンガーの猫のようである。
人が突然消える携挙という現象も一種の分岐と言えるのではなかろうか。しかし、『世界五分前仮説』のように消えた人間のことを人々が覚えているのか疑問に思う。
宇宙の最後は鉄になるといわれているが、原子核は鉄を中心に見ると、炭素などはより軽く、ゲルマニウムなどはより重くなる。
そして、鉄より重い原子核は分裂して軽くなったときにエネルギーが生じ、鉄よりも軽いものは融合したときにエネルギーが生じる。しかし、鉄の原子核からはエネルギーが生じない。
分裂や融合の際、質量が減っているのであるが、この減った質量とは分裂や融合の際飛び出した粒子の質量であり、これはE=mc2の公式の通り光の速さの二乗を掛けたエネルギーを生む。
つまり、エネルギーの正体は粒子の運動なのである。以前「パルメニデス」で同様のことを書いた。
そして、この世界は振動からできているという説がある(超ひも理論)。そこから、宇宙ホログラム説というものまであるから、この世界は仮想現実かと思えてくる。
『世界五分前仮説』も宇宙がホログラムのような存在であるならば、尚更否定は難しくなる。
パルデニメスの主張するように、この世界が、「有るもののみが有り、有らぬものは有らず。」とすれば、我々が経験する事物の多数性(無限)や運動は感覚の臆断にすぎなくなるのだ。
多数性についても、○○率というとき、○○は、必ず分子になる。掛け算は同じ数をいくら足せるか?で、割り算は同じ数を何回引けるか?ということであるが、○○率は割り算である。円周率のように無限となることもあるが、有るもののみが有る。 多数性(無限)についても足すという感覚に陥ると発散する無限のように捉えてしまう。
無限というものの収束は、次のように証明できる。
アインシュタインのいうように、時間と空間は光の速さに対して伸縮するが、まるで、ゼノンのパラドックスである。
タイムパラドックスの解消について、空間分岐の多世界解釈(パラレルワールド)の他、多精神解釈というものがある。
多精神解釈とは、宇宙+観測者はペアで分岐するのではなく、「分岐」するのは(宇宙ではなく)観測者の方だけという解釈である。しかし、この解釈の場合、分岐後、観測者は、パラレルワールドを知り得ず、分岐した世界の時間の記憶しか持ち得ないものであろうか?
まるで、完全な設計図を持ってるのは生殖細胞のみか、その他の細胞も完全な設計図持っているか(例えば、足の細胞なら足の設計図しか持ってないのか足の細胞も全身の設計図持ってるのか)という生物学会では百年以上論争があった細胞の設計図の話みたいだ。
これは、一念三千という考えにも似ている。一念三千とは人の一瞬の心(一念)の中に全宇宙の現象(三千世界)が具わっていることだという。さすれば、すべての分岐する世界の時間の心が人間には具わっているということが言えるであろう。
それではどのように世界は分岐しているのであろうか?。一念三千の法門においては、十界が互いに具有し合って百界になるということを「十界互具」というが、これはどういうことかというと、地獄から仏に至る十の世界において、仏の世界のなかにも地獄から仏に至るまでの十の世界が具わっているということだ。逆に、地獄の世界のなかにも地獄から仏に至るまでの十の世界が具わっているともいえる。
これは現実においてどういうことかというと現代の日本のように偉い人にも地獄におちる心(クオリア)を具有しているし、芥川の「蜘蛛の糸」に登場するかんだたのような大泥坊でも仏に成る心(クオリア)を具有しているということだ。
考察からいえることは、どの世界においても十界を互具しているのなら、また、極悪人においても仏性を具えるなら、太平の世を築くことは不可能なことではないのだ。
ケムール人が暗躍したのでしょう。🥴
— 匿名人物Q (@Kp8Fhvh9oxTfzwj) November 5, 2020
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