岩崎武雄氏は「哲学のすすめ」の著作の中で、基本的人権についてこう述べている。

【我々がすべての人間を事実的にくらべてみれば、すべての人間がみな平等なものであるということはけっしていうことができません。それぞれの人は異なった身長や体重をもち、またすぐれた能力をもつ人もあれば、そうでない人もあります。人種によって皮膚の色も違います。したがって我々は事実判断によって、すべての人が平等に基本的人権をもつということを基礎づけることはできないのです。もし我々があくまでも事実判断から価値判断を引き出そうとすれば、すぐれた能力をもつ人はそうでない人より多くの権利をもち、男性は女性より平均何センチ背が高いから、何センチ分だけ大きな権利をもつべきだ、というような結論も生じかねません

 たとえば、もし我々が自分の基本的人権を主張し、「もしこの基本的人権を認めてくれなければ、おまえを殺してしまうぞ」といったとしたらどうでしょうか。それはいうまでもなく自己矛盾です。他人の生命を尊重することによってのみ、はじめて自分の基本的人権というものも生じてくるのだからです。しかしそれにもかかわらず、この種の考え方が個人的にも社会的にもしばしば行われているのではないでしょうか。少なくとも、自分の人権を守るためにはなにをしてもよいのだという考え方はよく行われているようです。
 しかし基本的人権は、けっして人間が事実としてもっているものではありません。それは、人間の生命の絶対性を認めるという価値判断の基礎の上に、はじめて成り立つものです。そうすれば、人権の主張は同時に他人の人権を重んずるという義務を伴うはずです。】
さらに、岩崎武雄氏は基本的人権の思想の基礎づけは、「ひとりひとりの人間のもつ生命のかけがえのなさということの認識によってのみ、与えることができるのではないかと思うのです」という。

 

 「哲学のすすめ」では、「価値判断にも二種類ある」と述べられている。

 一つは、具体的事物についての価値判断であり、もう一つは原理的な価値判断である。 

 

 事実判断は感性(五感)で認識された情報を悟性により理解することを意味する。これだけに引きずられるならゾウリムシや甘利氏※①、もやウィン※②、パヨク(唯物論)※③と同じ。経験主義などの懐疑論がいう真理は、人間の感性の制限が感性を助ける道具などの利用や時間に伴う変化により判断がくつがえることがあるア・ポステリオリな真理(帰納的)なので、岩崎氏がいう具体的事物についての価値判断といえるものである。

 


 岩崎氏は、具体的事物についての価値判断からは基本的人権を基礎づけられないというが、個人の尊厳に帰着する基本的人権の尊重という価値判断は、原理的価値判断だからであろう。

 原理的価値判断は認識されたものをどう評価するか?という観察する人間側の基準であり、判断を下すのは人間の理性である。人間の理性は具体的事物と離れて存在して有るものなので、理性(我)の存在はア・プリオリな真理(疑えない存在・経験を超えて存在するもの)といえ、理性の命じる法(命法)は、演繹法の大前提となり得る命題である。


 

 理性の命じる基準(法)には、仮言命法と定言命法が存在するとカントは考えるが、基本的人権の尊重という概念は、人間を道具や手段として条件付で生じるものではなく、目的自体として認識することで生じるもので、定言命法に従うことで実践できるものである。


  岩崎氏が、〝もし我々が自分の基本的人権を主張し、「もしこの基本的人権を認めてくれなければ、おまえを殺してしまうぞ」といったとしたらどうでしょうか。それはいうまでもなく自己矛盾です。〟と述べているが、上記のような発言は仮言命法に従うことから発せられる言葉だからではなかろうか?。


 こう主張する人が多数派になったとしても、矛盾が解消されるわけではない。多数派だからといって本質が変化するわけではなく、基本的人権はすべての人間が生まれながらに持つ権利に対して各々の人間が負うべき義務であるからだ。

 ロックも経験主義の立場であるが、基本的人権の尊重の観点から自然法を否定していない。

 カントはルソーの「エミール」を読んで、「人間を尊敬することを学んだ」と述べたように、ルソーの影響をうけているので、この仮言命法と定言命法は一般意志と特殊意志の区別を基礎づけるものとしてとらえることもできよう。


 仮言命法から生じる「もしこの基本的人権を認めてくれなければ、おまえを殺してしまうぞ」というような主張は基本的人権の尊重という義務を放棄することを肯定すること以外のなにものでもないのだ。

 

 岩崎武雄氏は、具体的に「親切で、他人に思いやりのあることはよいことである。」という価値判断を原理的価値判断の例としてあげ、Aが他人に対して親切にしているという事実判断があれば私は「Aはよい人である。」と価値判断を下す。

 また、 しかしAが、人前では親切で思いやりのあるように振る舞っていても、かげではまったく違ったこと(イジメなど)している事実を知れば(事実判断すれば)、「Aはよい人ではない。」という価値判断を下す。というように、Aについて認識した事実によって変化するような価値判断を具体的事物についての価値判断の例としてあげている。  

  例を見ればわかるように、原理的価値判断は具体的事物についての価値判断をする上で前提となる価値判断となるのであるが、原理的価値判断が正しくとも具体的事物についての価値判断を誤れば、真実とは異なる価値判断をしてしまう可能性が存在するということだ。

 

※①

※②

※③