「お菓子が好きだ」という人が、お菓子を愛するあまり「生類憐れみの令」のようにお菓子を食べずに愛でるべきだとする法律を作ったとしたら皆さまはどう思われるでしょう?。

 「お菓子は儚くも私の享受によりこの世から消え去る運命である。お菓子はどこから来て何処へ行くのか?」などと対象の消失に嗟嘆する人ならこのような法律に同感出来ようが、普通、お菓子が好きだという場合、本当に好きなのは、お菓子を食べること、畢竟私によるお菓子の享受が好きなのであり、お菓子そのものが対象ではないので、「生類憐れみの令」のように「食べるな」と言われても同感出来ないだろう。しかし、人間に対する愛というものは、夢にまで見る愛する人を思い浮かべればわかると思うが、「好きだ」という対象は愛する人そのものであり、対象の喪失は深い悲しみを生むものであるから、「生類憐れみの令」のように「殺してはならない」「食べてはならない」という法律を作ったとしても同感できるものである。
 だがしかし、人に対しても私が好きの対象になれば、お菓子のように人を扱うことに疑問を抱かなくなる。
 人とお菓子の差異は対象が人の場合、「好き」と言っても「嫌い」と言われる可能性にある。愛するというなら、相手の承認する意思が重要になってくるのであるが、私が好きという人間は、「嫌い」と言われても、相手に選択の余地なく暴力的に「好き」と言わせお菓子を貪るように自分の欲望を押しつける。
 自分が思うから、相手も思い通りに動くべきと承認を強要することは、相手の人格を破壊する行為である。
 魔女裁判では虚構の中に表される真実を、まるで現実の中の真実のように見せかけ、拷問にかけて魔女であることを自白させたが、対象を私から相手にすれば真実でないことは明白である。
 
 
 このような抑圧状態で、相手に無罪の証明の責任を負わせても不可能に近いというものだろう。
 現代日本においては、国民主権を否定し、様々な場面において国民の承認を無価値なものとみなすプロパガンダが垂れ流しされているが、今のままでは「人を殺せ!」「人を食え!」という法律に従わなくてはならなくなるだろう。
 このような対象が逆転して私になる構造は差別にも見られる。差別というものは、邪悪、汚穢、卑賎、劣位などの自己の内部の闇の投影を相手に選択の余地なく暴力的に押しつけた結果だからである。私の主観というものは写像にすぎない。実像の把握を怠ればイランのウクライナ機誤射のようなことが起こる。
 戦争はお互いに私を対象(主体)に考えることから生じるものであるが、私のことしか考えない人間が権力を握れば、差別のような抑圧や戦争が常態化し、人間の生命の掛け替えなさや自由が失われ、国民は最後たいやきくんのように食べられることになるだろう。