明治憲法はその上愉で、国家統治の大権は天皇が祖宗から承けたものと述べて、天皇統治の正当性の根拠を神勅に求めている。
 神勅とは、皇孫瓊瓊杵尊が葦原の中つ国に下るとき、三種の神器とともに天照大神が授けたと言われる言葉のことである。その言葉は、「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」(日本書紀)というものである。
 このような国家権力の正当性の根拠を人間を超えた神の意思に求める思想を神権主義と呼ぶ。王権神授説も神権主義と呼べるだろう。
 このような思想が徹底すると、宗教的権威と世俗的な権力の区別をなくし、地上に神の国を実現しようとする神政制(theocracy)になる。
 日本では、戦争が終わるまで、神国思想が鼓吹され、祭政一致とか天皇は現人神であるというような教育が行われた。
 神社は国教的な地位を占め、神職は官史待遇であった。強制的な氏子負担金も存在し、現在のようにその維持経営が、個人の自発的な信仰及び献金ではなかった。

 神権主義に陥ると王権神授説を見てもわかるように、寛容の精神がなくなり、魔女裁判のように二分法で考えるようになる。

 プロテスタントを悪魔や魔女に仕立てたように、異を唱える者は、差別のように自身の闇の投影である主観でしか相手を見なくなる。(その主観を選択の余地なく相手に暴力的に押しつけるのが差別であるので、敵や悪魔や差別というものは権力関係といえよう)
 このように、国家権力の正当性の根拠を人間を超えた神の意思に求める場合、選挙は基本的人権の侵害を合理化するための道具となる。
 しかし、国家権力の正当性の根拠を個々の国民だとするなら、それが多数決による全体意志であろうと基本的人権を侵害することは許されない。
 ルソーは、選挙された後は国民から独立な議会が最高であるイギリス国民は奴隷だと評したが(これは民意が大衆迎合などと批判されてなかなか反映されない現在のイギリスを見てもよくわかるが)、これは番人の番は国民であることを否定することにも繋がるからだろう。
  これは、チョコミン党が与党になった場合を考えるとわかりやすい。我々国民は何の選択肢もなくチョコミントを食べ続けなければならなくなる。

 


  そもそも国民に主権があるのがおかしいなどとぬかす輩は、選択の自由や寛容の精神※を理解せず、チョコミントを国民に食わせ続けるのと同じだと思う。日本の思想は「無思想という思想」※※などという概念を否定して自分(または権力者)の都合のいいようにねじ曲げる詭弁の言葉に踊らされて、何も考えなかったり、自分を押し殺す真似は、欺瞞に気付かなかったり、自己欺瞞に陥るだけである。逆らえば殺されるからなどという理由で従うなら、国民は踏み絵させられたキリシタンや銀行強盗の人質とかわらない。(実際、明治憲法では、基本的人権を否定していたが、中でも女性は男性よりも自由が否定され、選挙権はもちろん好きな人と結婚もできなければ、自分から離婚もできなかったそうだ。)

 

※寛容の精神

 

※※「無思想という思想」

「民」の字形は、人の瞳を突き刺している形で、視力を失わせることをいった。臣も民も視力を失ったものの意で、古代において奴隷や捕虜の目を針で刺し、目を見えなくして単純労働させたことからきているのだ。

 芥川は『侏儒の言葉』で「古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。」ということを述べているが、『無思想という思想』とは国民をこういう状態に仕立てることを目指すものである。