可能世界とは、実現はしていないが論理的には可能な世界をさしている。

 物の本質というものは、あらゆる可能世界で正しいものである。

 例えば、「水はH2O」という命題は本質を表しているが、まだ「水はH2O」ということが発見されていない世界、水そのものが発見されていない世界、「水」という言葉で水を含めた何種類かの液体を指している世界であっても、「水はH2O」という本質はあらゆる可能世界で正しいことがわかるだろうか?。

 これは、帰納的な命題と異なり、将来においても必然的に正しい命題である。

 自然法思想においては、理性を持つ人間が正義と呼ぶものの本質を実定法の上位に位置付けるのである。

 さらに、一般意志と特殊意志は区別されるべきものである。

 それはアベ政治のように、本質の異なるものを正義と呼んでいても、「水はH2O」という正しさが変わらないように正義の本質そのものは将来においても必然的に正しいからである。

 では、ここで次の動画を見てみよう。

  まったくのフィクションではあるが、経験したこと(歴史)はまったくのフィクションではない。

 「歴史は繰り返す」の言葉通り、歴史を繰り返す可能性は否定できない。(特に、現代のように言論統制された中、「コピペ職人」百田ウィ樹の『日本ウィ紀』のような本しか読めなければ、過ちである戦争の歴史を繰り返す可能性大だ。)

 しかし、歴史を繰り返さない可能性も否定できない。

 なぜなら、過ち(リスク)を予想できるなら人間はそれを避けるからだ。

 避けられないのは、人間の本質である理性を否定した場合であり、その場合は、過ちである戦争の歴史を繰り返すことになるだろう。

 だがしかし、人間は正常な状態の平和を破壊し、過ちの戦争の歴史を繰り返す程愚かなのだろうか?。(民主主義といいながら、民主主義の前提にある自由そのものを否定する共産主義やナチスじゃあるまいし…。)

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