ナショナルジオグラフィックニュースでこんな見出しの記事がある。
【アメリカ国民に広がる飢餓の問題】
他にも【ワシントンの汚染川、貧困層の食糧源に】という記事もある。
ニューズウィーク日本版ではこんな記事が…。
【世界人口の半分と同じ富が62人の富豪に集中】

格差も極まれり。貧困問題に取り組むNGOのオックスファムは最新の報告書で、世界ではわずか62人の富豪が、最貧層35億人分と同じだけの富を所有しているという。 この62人の昨年の富は1兆7600億ドルに上り、世界人口の半分以上を合わせた額を上回った。2010年には、世界人口の半分と同じを富を独占していたのは388人富豪だった。この1年で富はますます少数に集中し、今では二階建てバスの定員にも満たない人数になっている。
 富裕層の富は2010~2015の間に44%増大。これはざっとカナダのGDPと同じ額だ。富の集中と租税回避地に隠された推定7兆6000億ドルの資産のおかげで、世界的な貧富の格差は「過去例をみない極端さになりつつある」と、同リポートは警告する。
「社会契約」が破綻
「金融危機と世界大不況の後、経済は再び回復しかけている。これは喜ぶべきことだと誰もが思っている。だが、所得の成長や富の成長を実際に手にしいてるのは少数の大金持ちだけだ」と、オックスファムの政策責任者、ウェイン・クリプケは本誌に語った。「労働者階級と貧困層は成長の果実を得ていない。ということは、経済のとこかが決定的にくるっている。ルールに則って一生懸命働けば報われる、という社会契約説が破綻している」
 オックスファムの驚くべき報告書は、今週開幕する世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)に向けて準備された。政財界の大立者や有名人、いわば資本主義の支配者たちがスイスのリゾートに集まり、今年のテーマであるAI(人工知能)や激動のマーケットについて話し合う。
 富の格差を是正するには、世界の指導者たちが労働者たちに生活に必要な最低限の賃金を支払い、職場での男女平等を推進しなければならないとオックスファムは言う。租税回避地の廃止にも取り組む必要がある。
 昨年のダボス会議の前には、オックスファムは、所得格差が放置されるなら世界の富裕層1%の富が残り99%の富を2016年までに上回ってしまうと警告した。今やこのシナリオは現実になりつつある。
極度の貧困は半減したが 世界有数の金持ちの多くの純資産は今や、複数の国家を合わせたより大きくなっている。マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツの純資産は推定792億ドルで、ベラルーシとスリランカのGDPを合わせたより多い。メキシコの実業家カルロス・スリムの純資産は、レバノンとウルグアイを合わせたより多い771億ドルだ。
 世界的な貧富の格差の広がりの原因の1つは、経済システムが権力者だけを利するような仕組みになりつつあるからだとオックスファムは言う。2009年以降、アメリカのCEOたちの報酬は54.3%上昇し、一方で賃金は頭打ちだった。また米シンクタンクの経済政策研究所が昨年6月に出したリポートによると、CEOたちの稼ぎは30年前と比べて10倍になった。
 1990~2010年の間に、極度の貧困にあえぐ人々の数は半分に減ったと、国連は言う。それでも尚、世界で8300万人以上の人々が極端な貧困の下に暮らしている。オックスファムは貧困層の減少を「進歩」と言いながらも、その間も各国の経済格差は拡大してきたと言う。

ルーシー・ウェストコット

 

 
ルソーは『人々の間の不平等の起源は何か、それは自然法によって是認されるか』という課題の懸賞論文に応募して落選している。
だがしかし、ルソーが考えたように自然法(理性)の現れとしての一般意志と欲望から来る特殊意志の区別は必要ではないだろうか?。特に実定法が自然法を踏みにじる場面(=人権を侵害する場合)、修正するのに必要な考えだ。
それに、落選したからと言って彼の考えは無駄になったわけではなく、その後の革命を支える思想となった。
ロックにしても多数決原理を認めているが自然法を否定していない。
ここまで格差がひどくなる前の1992年に、格差是正のため証券規制当局が報酬の開示を義務づけたことがある。
開示することで世論がこんなに格差があるのか!と非難することにより格差が是正されると考えたらしいが、結果は逆で経営者たちが報酬ランキングに載ろうと競争をはじめた。しかもそれを正当化するための「報酬コンサルティング」会社が大繁盛し、アメリカは世界で一番お金持ちでありながら、飢餓の問題を抱える国になったのである。
残念ながらこれはあなた方の国にも当てはまる。
このような飢餓に苦しむ人々が増える中、そのような人々は存在していないかのように振る舞うことは正しいだろうか?。

 

 

ナチスの戦争犯罪を裁いたニュールンベルグ裁判のように、「法律は法律だ」との主張に対し、人間的価値を内包しない法律に抵抗する義務を対置して、「人道に対する罪」として処断した事例がある。欲望を満たすこと自体が悪いわけではないが、そのために人間としての義務を忘れてよいものだろうか?。
 
 
私とよく似たマイケル・サンデル教授はその著書の中でこう述べている。
『あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのではー?』
次の動画を見てみよう。

 

 

『おそ松さん3.5話』においてナレーターは最後にこう述べている。『こうして新品ブラザーズとチョロ松は童貞卒業への第一歩を踏み出したのであった。めでたしめでたし。次週、仲良くなった女の子はマルチのカリスマお楽しみに!』
おそ松さんたちは何かつまらないもののために「何か」大事なものを失うような気がするのは私だけだろうか…?。
ナメクジはカタツムリの殼が退化したものであるが、自然選択で引き起こされることは進化だけとは限らない。
現代の新自由主義社会で起こっていることはカタツムリと同様のより良い社会を築く上では何か大事なものが失われていくカタツムリ同様の退化ではなかろうか?。
そんな社会については君はどう思う?。