芥川は『侏儒の言葉』の中で、

「理性」について「理性のわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった。」
と述べている。
また、例えで、
「健全なる理性は命令している。~『爾、女人を近づくる勿れ。』しかし健全なる本能は全然反対に命令している。~『爾、女人を避くる勿れ。』」とも言い、「天国の民」について「天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。」と述べている。

この人痴漢です!

 

正義の基準が理性に基づく正常なものであるなら、カエル先生も今頃天国ではなく、監獄の中で似たようなことを思っている筈である。
だがしかし、カエル先生の父親が権威あふれるこんな立派な御仁だったらどうだろう?。
ウサギちゃんはカエル先生にハニートラップを仕掛けた悪い女だと逆に非難を受けてしまいます…。
カエル先生の父は、しまいにはセクハラ罪と云う罪などないと言い張ってしまいます。
┓( ̄∇ ̄;)┏
そして友だちだと思っていた者まで一緒になって嘲笑してきます。
まさに芥川のいう【地獄】であろう。
「地獄」
「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸カタルの起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に墜ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である。」
芥川は無法則の世界というが、これは正義の相対性を前提に「正義とは強者の利益以外の何ものでもない」「正義は弱い人間同士が不本意ながら従う取り決めに過ぎない」という主張をして、ソクラテスを死刑に追い込んだ連中と同様、理性を無に等しいとみなし、欲望を中心に置く利己主義的倫理説※が支配する世界なのだ。
だから、聖書の記述とそっくりな状態になってしまうのだ。
 
 
 
最近、山本太郎氏が下関市長選の質問を安倍総理にしたそうだ。
前回のブログ記事で、
【一線を越えて正義の基準が逆転する。そうなれば、芥川が言うように、
「暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。」と云う状態になるのだ。】と述べたが、ウサギちゃんみたいに痴漢を痴漢と呼ぶのが甚だ危険である世界は地獄よりも地獄的である。
山本太郎氏の質問がウサギちゃん同様嘲笑されるなら、現代日本は地獄よりも地獄的な世界(国)といえるだろう。
 
 
※【利己主義】
原語エゴイズムは、古くは独我論(主観的観念論)の意味に用いられた。
利己主義と訳される場合には、次の二つの意味で用いられる。
①もっぱら自己の利益のみを大切にして、他人の利益を自分の利益に従属させ、万事をこの観点から判断する態度。
②個人の利益から出発して道徳の観念や原理を説明しようとする倫理説。
帰結主義的道徳原理である功利主義や社会ダーウィニズム(新自由主義)などが利己主義的倫理説の例としてあげられるが、目的のためなら手段を選ばない(理性に基づくルールを守らない)から観察者(芥川)の目には無法則に映るのだ。