『自分が幸せになるには自分のまわりの人間を犠牲にしても構わない』と開き直る人間が多い…。実際、そういう方法が幸せになる方法だと説く人も多い。
 『成功の秘訣?』という記事を以前書いているが、このような情報ばかりだとそういう考えになってもおかしくない。

  そういう世の中で、成功せず、幸せになれない負け組は、単純に怠け者であり、自己責任というひと言で片付けられるものであろうか?。

 まるで殺人犯が死体を壁に塗り込むのと変わらない偽装ではないか?。

カントは『嘘』論文で「人殺しに追われた友人をかくまうための嘘さえも罪」だと述べている。これは極端だとしても、バロック期においては「嘘も方便」と同様の議論が盛んで、政治学者ユストゥス・リプシウスが「たとえわずかに水が調合されたとしても、ぶどう酒はぶどう酒であることを止めない。そして、たとえ数滴の欺瞞が調合されたとしても、叡智はなお叡智である。私がつねに考えているのは、良い目的のための控えめな欺瞞である。」と述べている。
ある程度の遊びは必要なのではないかとも思われるが、しかし、恐怖のみそ汁のように、人を殺すぐらいになればみそ汁ではなくみそ汁に偽装した毒である。
同様に現代における負け組=怠け者または劣った者の評価はそのように偽装しているだけである。特に自分の理性に基づく良心に従って批判した結果、圧力をかけられ仕事を失い、最悪命まで落とした人間に対する評価は、新自由主義者の言う負け組の評価理由とはかけ離れたもので、偽装としか言いようがない。
しかし、こういう偽装・隠蔽でも「勝てば官軍」「結果が全て」などと言って、日本でも上に立つ人間には必要な資質で許されると肯定する輩(特にアベ支持者)がいる。
『智恵について』(1601年)というフランスの哲学者ピエール・シャロンによって書かれた本にそっくりな言葉が記されている。
「個人にとっては悪徳であるような隠蔽は、君主にとっては極めて必要不可欠である」
果たして、上に立つ人間ならこういう悪徳は許されるべきものどころか本当に必要なものなのか?。
マキャベリもこういう言葉を残している。
「これまで多くの人は、現実のさまを見もせず、知りもせずに、共和国や君主国のことを想像で論じてきた。しかし、人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。」
「君主は前述のよい気質を何からなにまで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているよう思わせること、それが有益なのだ、と。」
果たして、よい気質は見せかけだけでよいのか?。
アベ政治にぴったりあてはまる言葉であるが、
このような原理に従った国はその後どうなっただろう…。

さらにアベ政治では、このような毒を現実に呑むのは国民で毒を呑む国民は死ぬのだ。

原発でも東日本大震災前、日本を救う産業みたいに言いバラ色の未来をうたっていたのをみればわかるだろう。

 

 
 
 
 
まるで第二次世界大戦の時の大東亜共栄圏みたいな話だが、このような帰結主義的道徳原理のいう目的は蓋然性にすぎず、そのために定言的なルールを破っても思い通りにならないことを知るべきである。
人間に本当に必要な資質はなんなのか皆も考えるべきだと思う。