デビルマンの中の1シーンだが、家にいるのが悪魔ではなく、神だと思っている人が同じ数だけいたらどうだろう?。
多くの死者がでることになるだろう。作品の中では牧村家の方が少数だから圧倒的に虐殺されてしまっているが、神だと思っている人が多い場合、悪魔だと思っている方が逆に虐殺される結果になる。
これは漫画だからまだいいが、人間の歴史を振り返ってみれば、似たようなことが現実に多く起こっている。
どうしてこういうことが起こるのか?。
 
 
 
差別は主観において、他者に対し、実像(客観)と異なる自分自身の闇の投影である写像で評価することであるが、この差別と同じで、自分が頭の中に作り出した妄想を相手に選択の余地なく暴力的に押しつけることから闘争が生じるのだ。差別の場合、権力関係(軍事力)により闘争すれば殺されるので、その押しつけを受け入れるしかない状態である。それでも不満が積もり、我慢の限界をこえれば暴動が起こる。
このような事態を避けるには寛容(tolerance)の精神(これは弱者が強いられるものでないことに注意が必要)が必要なのであるが、神とか悪魔、好きとか嫌い、資本家とか労働者、勝ち組とか負け組などの二分法で考える人間の多くは寛容の精神を持ち合わせていない。
あるのは不寛容の精神(相手を邪悪・汚穢・卑賤・劣位なものと蔑む)だけである。
社会を弱肉強食・優勝劣敗・生存競争と定義すれば、寛容の精神も育まれず、人間の社会からかけ離れ、人々は緊急避難的に自分のどのような行為も正当化されると思いがちだが、それが本当に正しいのか人間であるならば考えるべきである。
西周助(のち周)はNatuurregtを「性法学」と訳した。これは「自然」を人間の「本性」・事物の「本性」ということばで現したことから来ているそうだが、人間の本性から外れた法を正義だと信じてはいけないと思う。
最後に紀元前8世紀の詩人ヘシオドスの言葉を記載しておく~「正義という法は人間に対してだけゼウスが定めたものであり、互いに食い合いをする魚や獣や翼をもつ鳥どもには、正義なるものは存在しない」