ア・ポステリオリな真理とア・プリオリな真理。

ア・ポステリオリな真理はなぜ、蓋然性にとどまるのか?。
半沢直樹でも大和田常務の「0は倍にしても100倍にしても答えは0」というセリフがあるように、そのときに気付いてないパラメーターに『掛ける0』がある場合、それが影響するからだ。
だから、財務分析は、一つ残らず割り算で計算を行う。
客単価とか1時間あたりの製造数量など考えてみればわかりやすいだろう。
掛け算は「同じ数を何回も足す」ときに使い、割り算は「同じ数を何回ひいたか」というときに使うが、足していくというのは将来、引いていくというのはすでにその事実が発生していることが前提として存在しているといえるだろう。したがって、割り算の数値は確実性と客観性を備えるといえるのだ。
そのため、割り算は嘘をつけない。嘘をつくときは掛け算などということを聞いたことがある。
しかし、このように考えると、ア・プリオリな真理も帰納的で未来に関しては蓋然性に過ぎないのではないかという見解もあるが、次のように考えれば、区別できるのではないかと思う。
 
正義でも「みんな同じ」という正義、「みんな違う」という正義に分けられ、前者を平均的正義、後者を配分的正義と呼んでいる。
平均とは「いくつかの数量を、等しい大きさになるようにならしたもの」だから平均的正義は割り算的と考えられる。これに対して、配分的正義は〇〇の倍与えられるべきという時に使うから掛け算的といえる。
このような「みんな同じ」「みんな違う」というのはなぜ生じるのか?。
ここで以前から何度もブログで書いているA→B、B→A、B→Cの話を思い出してもらいたい。逆は必ずしも真ではないということだ。
我々は、エネルギーを体内に取り入れ、エネルギーをその過程で消費して体外に排出するという動的な存在で、エネルギーの流入・流出の差額としてのエネルギーが我々の体を形づくっている。だが動的な我々の体を再構築する設計図のような遺伝子の存在が今日では知られている。
我々の体はこのような連続的・反復的な生命活動に伴って生じるものであるが、これを社会についても当てはめるなら、ヘシオドス、二宮尊徳のように考えてAを人間の世界(前国家的状態)、Cを人間以外の世界とおいて考えるべきである。
B→AについてAに達するなら、いくつかの方法(みんな違う)があってよい。
競争についても福沢諭吉は幕府の役人から「争」という字はおだやかではないと注意されているが、犬のディオゲネスが「競争の際には、隣の人を肘でついたりして互いに競い合うのに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいない」やアダム・スミスの「富と名誉と出世を目指す競争において、彼はすべての競争者を追い抜くために、できるかぎり力走していいし、あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし、彼がもし、彼らのうちの誰かを押しのけるか、投げ倒すかするならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それは、フェア・プレイの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。」などと述べるように、それがCではなく、Aを目指すものなら大いに競うべきだと思う。
このような競争の結果はア・ポステリオリな真理ではあるが、その過程で必要となるア・プリオリな真理は我々の体を再構築する遺伝子のようなルールであると考えれば、ア・ポステリオリな真理と区別できるのではないかと思う。