言ってもわからない人間というのは、期待可能性が低いことが多い。
 
 

期待可能性とは、行為の当時、行為者が適法行為をすることを期待できること。

故意・過失と並ぶ第3の責任要素と解する説、故意・過失の構成要素と解する説、期待可能性のないことを責任阻却事由と解する説などがある。
だいたい、「右の頬をぶたれたら、左の頬をさしだせ」という言葉を聞いて反論する人間は、ぶってくる人間はたいてい左の頬をさしだすことでぶつのをやめる期待可能性がないからだ。
例えば次のコラムを読んでみよう。
 
 
 
 
太田は悪だと思っていても、イジメまがいのことをやってるのがわかるだろう。
これはお笑いの人間には、相手の欠点をつくのをやめる期待可能性が低いと言ってるのと同じことだ。
チビには「背高なったなぁ」とか、ハゲには「毛フサフサやん」と言ってあげる思いやりに欠けるのだ。
次に以前ブログで書いた記事を読んでみよう。
パンツ大臣のいう多数決だとパンツ大臣の言い分が通る可能性が高い。これも投票する人に期待可能性が低い例と言えるだろう。
我国の人民は、個人ではそうでもないが、組織になると、福沢諭吉が「そもそも我国の人民に気力なき源因を尋ぬるに、…人民はただ政府の嗾するところに向かって奔走するのみ。あたかも国は政府の私有にして、人民は国の食客たるが如し。」と述べるように、たちまち適法行為を行う期待可能性が低下する。司馬遼太郎の「手掘り日本史」には『無思想という思想』とか書いてるが実質は、国家に逆らったら、国家によって家族まで殺されるかもしれないという恐怖感が期待可能性を低下させているのだ。
肉体→欲望→他律、魂→理性→自律、この異なる源泉からすべての人間に期待可能性はあるとも言えるが、ないとも言える。
現代においては、見かけや資格だけみたら、期待可能性が高そうなのに、社会ダーウィニズムの利己主義の思想から、期待可能性のない人間が増加傾向にある。
誰かドラえもんの秘密道具みたいに『期待可能性メーター』というのを発明してくれないものだろうか?と思う。
きっと自民党や公明党や維新の政治家やその支持者は数値が低いはずだ。