イソップ物語の中の話の一つと毛利元就の話が似ていることを以前ブログで書いたが、ヘシオドスの話と二宮尊徳の話も似ているのでご紹介します。

ヘシオドスは「正義という法は人間に対してだけゼウスが定めたものであり、互いに食い合いをする魚や獣や翼を持つ鳥どもには、正義なるものは存在しない」というが、二宮尊徳もこう言う。
「大昔は人道がまだ明らかでなく、人類は鳥獣と一緒に住んで、昼となく夜となく食物をあさり、争奪を事としていたから、一日として安心な生活ができなかった。我々の祖先は、これを哀れと考えて、始めて推讓の道を立て、農業を教えられた。それで五穀がみのって衣食が豊かになり、人道が明らかに定まって部族が安らかに治まった。ところが世も下った今日では、民情がどうかすると大昔に戻りやすくなり、秋の末、ひとつの稲田がみのるのをみると、むやみにほしくなり、夏の初め、人の麦畑が塾するのをみれば、またとりたくなる。まったくの話、自分で作らずにどうして刈り取れるものか。もし取ったとしたら、それこそ鳥獣争奪の道だ。秋になって稲を刈ることができなかったら、自分で作らなかったのが過ちであると知って麦を蒔くがよいし、初夏になって麦を取り入れることができなかったら稲を植えるがよい。そうすれば稲でも麦でも、半年あとには、きっと収穫できるのだ。衰えた国の君主も人民も、よくよくこの道理を察しなければならない。」
古代ギリシアの民主制は古代オリエントの専制に対して生まれたものであるが、同じ戦うにしても、鳥獣争奪の道で刀を振るうのと人道で刀を振るうのとの違いがあるのではないだろうか?。
「正直であること」、「借りたものを返すこと」という二つの常識的道徳を前提とするとき、以前に預かっていた刃物を、その後精神に異常をきたした友人に返すべきかどうかというプラトンの提起した問題もこのような意味で言っていると思う。
時代や国が違っても人間の理性による判断はそう変わるものではないと思う。
こういう理性的判断を建前とか言って、人道も本当は弱肉強食、生存競争、時代や国で変わる。現実的になれと利己主義をすすめるのは如何なものかと思う。