「XがAする権利をもつ」というとき、「XはAするのを禁じられていない」と解釈される。Aすることが一般には禁じられ、Xについてその禁止が個別に解除されている場合、これは「特権(privilege)」と呼び、禁止の解除が一般化されている場合は「自由(liberty)」と呼ぶ。「~からの自由」というときはこの禁止の解除を指している。

そもそも国家が存在しなければ国家からの自由など論じるまでもなく、人はみな自由である。
では国家が存在する場合、国家がXに対し禁止すべきことは何であろうか?。
アベ政治の場合、天賦人権を否定しているから、そもそもXに権利など存在しない。すなわちすべてが禁止されているといえる。有るのは特権だけである。
Xは下の絵のように喧嘩に負けた女みたいなものである。
「自由を手に入れた男」
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「男は自由を手に入れた」
自由なのは男だけで、女は鎖に繫がれた奴隷と同じで男の許す範囲だけしか行動できず自由などないのである。このような政治を専制(古代オリエントのようにただ一人の自由人たる専制君主が存在し、それ以外は皆その君主に隷属する奴隷状態の政治)と呼ぶのだが、アベ政治はこの許す範囲(特権)だけを自由と言い張るのだからペテンとしか言いようがない。
これに対し民主制において禁止されるものはフィリア(深く理解しあい共通の価値へ向けて互いに励ましあう友情)や黄金律「自分が人からしてもらいたいことを人にせよ、自分が人からされたくないことは人にするな(治者と被治者の自同性)」によって導き出されるような公平を要件とする共通善(共通の利益)に違反することである。
アベ政治が求めているのは共通善から求められる禁止の解除(特権)であるが、このような特権が認められる場合というのはどのような場合であろうか?。
仮に道路の速度について「俺は自由だ!」と言ってバイクで風をきって走る姿を想像すると格好いいが、「俺は自由だ!」と言って道の真ん中でウンチしてる姿を想像すると格好いいどころか車に跳ね飛ばされる危険がある。

格好いいものは解除されるべきで、格好悪いものは解除されなくとも良いというものでもないだろう。
民主制においては、一方的な利益すなわち私的な利益は禁止の解除の理由とはならないのだ。
同様に政治家も国民であり、その立場を利用して一方的な利益すなわち私的な利益(私利私欲)を追求するために「公共の利益」と言っている場合、「公共の利益」は人々の権利を禁止する理由とはならない。

ましてや『15の夜~アベ政治Version』のようなパンツ泥棒が禁止の解除の理由とはならないのである。
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『15の夜~アベ政治Version』

落書きの教科書と外ばかり見てる俺
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
やり場のない気持ちの扉破りたい
校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない
しゃがんでかたまり 背を向けながら
心のひとつも解りあえない大人達を睨む
そして仲間達は今夜家出の計画を立てる
とにかくもう 学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている
15の夜

盗んだバイクで走り出す 行先も解らぬまま
暗い夜の帳の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

『アベ政治Version』

モザイク入りのエロ本とパンツばかりみてる俺

国会法案審議も上の空 届かない夢を見てる

やりたい女の家の扉破りたい

日本の裏 覚醒剤が見つかっても議員なら逃げ切れる

いばってかたまり 背を向けながら

心のひとつも解りあえない国民達を睨む

そして仲間達は憲法改正の計画を立てる

とにかくもう 戦後レジームから抜け出したい

云々の読み方さえ 解らずとも自虐史観と言えば良い

9条の国

 

 

盗んだパンツで走り出す 行先も解らぬまま

暗い夜の帳の中へ

憲法にも縛られたくないと 解釈変更に逃げ込んだこの国に

自由になれた気がした 9条の国

cf.2017-4-10のブログ「パンツとは何か?」

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カントは「笑い」について予期していたことが現実に裏切られるとき笑いが生じるという「不一致説」を説いているが、特権にしても救急車のようなフレーム(常識)から外れることがない範囲で認められるべきものであり、不一致は笑いしか生まない。

しかもアベ政治はそういうフレームすらない特権また国民には利己主義的特権の犠牲になることが道徳の源泉だとすることを求めているのだからもはや笑いすら生まず悲劇しか生まないだろう。