アメリカ連邦最高裁判所の正面玄関の上には、「法のもとにおける平等な正義」の字句が刻まれ、ロンドンの中央刑事裁判所の正面には「貧しき者の子らを守り、悪人を罰せよ」という文句がみられる。
そこにある正義とは不公平な「強者の利益(強者や優秀な者だけが生き残り利益を得ること)」や「不本意でも従わなくてはならない弱者どうしの取り決め」ではない。
そこにある正義とは公平な「黄金律(自分が人からしてもらいたいことを人にせよ、自分が人からされたくないことは人にするな)」に見られるような、「人間を自己の利益のために利用するという自己が目的ではなく、相手を目的自体」としてみることから導かれる共通善(共通の利益)である。
現代の新自由主義社会における正義は、アメリカ連邦最高裁判所やロンドンの中央刑事裁判所の正面に見られる正義ではなく、社会ダーウィニズム(市場原理主義)による金持ちの一方的な主張だけが正義とされる不公平なものだ。そのルールにおいては、貧しき者はまるで悪人のように扱われる。
しかし、聖書には「金持ちと貧しい人」についてこう記述されている。
【生き物はすべて、その同類を愛し、人間もすべて、自分に近い者を愛する。
すべての生物は類をもって群れ集まり、人間も、自分に似た者と固く結び付く。
狼と子羊とがどうして共存できようか。罪人と信仰深い人もこれと同じである。
ハイエナと犬は、どうして仲良くできようか。金持ちと貧しい者が、どうして和を保ちえよう。
荒れ野のろばが、獅子の餌食となり、貧乏な人は、金持ちに食い荒らされる牧草となる。
高慢な人にとって、謙遜が忌まわしいように、金持ちにとって、貧乏な者は忌まわしい。
金持ちがよろめくと、友人が支えてくれる。
身分の卑しい人が倒れると、友人でさえ突き放す。
金持ちがしくじると、多くの人が助けてくれ、言語道断なことを口にしても、かばってくれる。
身分の卑しい者がしくじると、人々は非難し、道理に合ったことを話しても、相手にしない。
金持ちが話すと、皆静かになり、その話したことを雲の上まで持ち上げる。
貧乏な人が話すと、「こいつは何者だ」と言い、彼がつまずけば、これ幸いと引き倒す。
富は、罪に汚れていなければ、善である。
貧乏が悪であるとは、不信仰な人の言うことである。】
現代世界において、格差社会が問題となるのは、新自由主義によって生み出される富が、同じ人間を餌食として生まれる罪に汚れたものであり、明らかに悪であるからだ。想像してほしい。
正義の女神が片手に金を握りしめ片手に銃を携え、目隠しをせず色眼鏡を掛けて金持ちにウィンクニコニコし、貧しい人にはツバを吐きかける姿を…。
正義の女神とは、片手にはかりを持ち片手に剣を携え、たいていは目隠しをした姿だったはずだ。正義も時代とともに変わるといっても変わりすぎやろとツッコミを入れたくなる程で、彼女にいったい何があったんだ(゚Д゚)!?とみんな思うんじゃないだろうか?。
正義の女神にも金が必要な緊急の事態があってこんな真似したんだといっても、こんな女神をみんな正義の女神と呼ぶものだろうか?

少し想像すれば、新自由主義の世界における正義というものがいかに滑稽なものか理解できるはずだと思う。