アメリカの外交政策は、大統領の個人の発想などではなく、ホワイトハウスの隣の建物に位置する国家安全保障会議が中心となって考えている。

アメリカの多くの国民は、いまでもアメリカは国外のことに口を出すべきではないとするモンロー主義が圧倒的に強い国民感情だ。

反対に、国家安全保障会議の連中は、16世紀以来の西欧の伝統である「外交問題は専門家が処理するものであり、民衆に知られてはまとまるものもまとまらなくなる」という考えを持っている。

つまり、外交政策はエリートだけで秘密の内に決めてしまおうとする姿勢だ。

しかし、現代のような情報化社会になると国民が秘密を知るようになり、民衆の力が及ばなかった外交の世界に、選挙の争点になるなどして、民衆の力が及ぶようになった。

そのため、アメリカは日本に先駆け、情報統制にやっきになっていたのだ。その流れの中に日本の特定秘密保護法もある。アメリカでは厳しい情報統制が敷かれた中、2002年9月20日に「米国の国家安全保障戦略」が打ち出された。いわゆるブッシュ・ドクトリンと呼ばれるものだ。

その内容は予防戦争・先制攻撃戦略である。

しかし、この戦略はナチスの戦略そっくりである。

ヒトラーの戦争の目的は、ドイツ民族のための生存圏(Lebensraum)を確保することにあった。

ナチスの最高法律顧問カール・シュミットは、政治の中核は空間の限定、つまり土地取得にこそあると断じている。

さらに、指導者の至高の任務は友(内)と敵(外)を区別する決定を下すことだという。

ファシズムは、不安の原因となりうる異和的な他者を除去し、完全な安全性(security)を確保しようとする運動である。生存圏とは、完全な安全性が保証されている空間である。そして、ファシズムの顕著な特徴として、ファシストはみずからを戦士として規定し、安全性を戦争状態と合致させてしまうことがあげられる。

ナチスの戦争は予防戦争・先制攻撃戦略であったと言える。ブッシュ・ドクトリンはナチスとそっくりであるというより、ナチスを真似していると言われても仕方ない。

ユダヤ人をイスラム教徒に置き換えたらよくわかるだろう。

予防戦争なんて言いだしたら本当にきりがない。人間誰にでもその要素があるからだ。

それなのに、同じ人間を敵と味方にわけて考えるとデビルマンに登場する雷沼教授のようなことを言い出すのではないだろうか?。

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安倍首相の著書「美しい国へ」ではチャーチルを称賛しているが、チャーチルはナチスと戦った首相である。

ナチスを肯定していたわけではない。

だが、現代日本の改憲論者はチャーチルではなく、ナチスの論理で改憲を主張しているのだ。

日本を取り戻すと言っているのだから当然と言えば当然である。

しかし、一番の問題はチャーチルを装って改憲を主張していることだろう。国民は騙されてはいけない。

手口もナチスそっくりで、ファシズム体制では、「ヒューラー」「ドゥーチェ」等、最高指導者を特別視し、神話的な古代の復活を主張するが、その古代の像があまりに理想化され純化されているがため、そこへの回帰が復古としてではなく、むしろまったく新しい体制への革命として志向されるのがナチスの手口である。つまり、社会ダーウィニズムの優勝劣敗の優たる存在だと国民を洗脳するのだ。

もちろんナチスもこんな本質(価値判断)は、現実存在に先立つものでないのはわかっていた。

だから、それを先立つもののように信じこませるため、信じない人間を敵として除去しようとしたのだ。

この手口は戦前の日本でも使われ、日本では信じない人間を非国民として除去につとめた。

現代日本とそっくりである。改憲を論じる前に我々日本人が考えるべきことは、安全性(平和)を戦争状態と合致させることが正しいかどうかであると思う。(具体的に例をあげるなら、ありもしない大量破壊兵器のために多くの命を奪う戦争までするのかということである)