活け造り | フライドチキンと海のおと。

活け造り

あれをありがたがって食べる精神構造が理解できない。


あれって何なんだろう?


「あたしはね、魚を殺さずに料理することができるんですよ」


という板前のテクニック自慢なのだろうか。
バカ舌の持ち主である僕が言うのもおこがましいが、
魚、こと刺身の味を決定的に左右するのは鮮度だと思う。
脂が乗っている、などというのは好みの問題だと思うけれど。
鮮度の落ちた魚の刺身のほうが美味しい、
というセンスはちょっと変なのだと思う。
ということは、
美味しい刺身の条件とは


「鮮度」+「板前の熟練した包丁サバキ」


ということになるのではないだろうか。
そこに「魚が生きていること」という要素は加わらないと思うのだが。
死んでいないから鮮度がいい?
どっちにしても刺身になる数分前、
もっと言えば数十秒前には魚は生きていたはずだ、そこが良心的なお店なら。
死んで(正確にはひらいて)から数十秒で、
味が劇的に変わるとはどうしても思えない。


「いやいや変わるんだって、これがね。
 活け造りだけの特別な旨さってのがあるんだよなあ」


とのたまうおとっつあんがいたとしたら、
それは“活け造り”という物体、
もしくはそれが出てくる状況をありがたがっている証拠。
もちろん板前が


「いやいや変わるんですよ、これがね。
 活け造りだけの特別な旨さってのがあるんですよ」


とは絶対に言って欲しくない。
そんなものはサービスの履き違えだ。
ぴくぴく引きつりながら、
わが身を食われて死んでゆく魚に倫理観や感情があるとは到底思えないが、
僕に言わせれば単なる悪趣味でしかない。
すごい技術なのかもしれないけれど、
後世に伝わってほしいなどとは思わない。
その状況でしか味わえない旨さなら必要ない。
それが日本の美意識だ、文化だなどとは言ってほしくないなあ。


でもありがたがる人がまだまだいるから、
職人はそれ専用の技術を磨いてしまうのかなあ。


むーん。