まぶたがわたしを閉じてから -18ページ目

ナナはオスのラブラドールレトリーバーで




引退した元盲導犬だ




ナナは10歳でボクの家へやって来た




その時ボクも10歳だったから同い年




「ナナ」って言うと女の子みたいだけど




これは単に「七番目の犬」っていう意味で




前の飼い主がつけた名前




ナナはとても賢くて優しい犬だったけど




歳をとり、大腸のポリープの手術をしてから




盲導犬としては体力面で厳しくなってきたため




引退してボクの家で余生を過ごすことになったのだ




ボクとナナはいつも一緒で




学校にもよく連れて行った




さすがに元盲導犬だけあって




騒がしい教室でもナナはお利口にじっとしていた




ボクは集団生活がとても苦手な子だったのだけれど




ナナが教室にいればなぜか落ち着いて席に座っていることができた




思えばおおらかな時代だったな




そんなに大昔の話ではないのだけれど




それでも学校はいまみたいに何かにつけヤカマシイところじゃなくて




担任の小西先生もボクのやんちゃな振舞いに




しかめっ面をしながらも大目に見てくれていた




一度だけ先生がボクのせいで校長先生と喧嘩をしたって聞いたけど




いまにして思えばあれはきっとナナのことを守ってくれたんだな




何よりナナはみんなのアイドルだったし




ナナのおかげでボクら6年2組は中学受験が近づいても




のんびりとして変にギスギスしたところのない




いい雰囲気のクラスだったように思う




そんなある日のこと




ボクたちいつもの悪ガキ三人組は




示し合わせて運動会の行進の練習を途中で抜け出した




手を振れ~オイッチニ!足上げて~サンシッ!なんて




そんなの馬鹿馬鹿しくてやってられないや




ひと休みしようと教室に戻ったボクたちは




ドアを開けた瞬間




惨憺たる光景を目の当たりにしたのだった




ナナがピーピーになって




教室の床じゅう到るところに粗相をしでかしていたのだ




そういえば昨日の散歩でナナはむしゃむしゃと




原っぱに咲いている花を食べてたな




ナナはお腹の手術をして以来変なクセがついて




やたらと花を食べたがるのだ




しかも自分が食べるだけじゃなくて




ボール遊びのときみたいに、ボクのところへ花をくわえて持ってくる




ボクはそれが嬉しくて、ついつい一緒に原っぱで遊んでしまうのだけれど




ナナは腸が弱いので気をつけて見ててやらないと




すぐにお腹をこわしてしまう




うかつだった




完全にボクのミスだ




ヒドい悪臭にボクたち三人は吐きそうになってしまい




たまらず給食当番のマスクを着用した




こうしてはいられない




みんなが帰って来る前に片付けないと




大変なことになる




確か次の時間は研修授業に指定されていて




県下からいろんな先生が視察にやって来るそうだ




いわば先生たちの授業参観みたいなものらしい




ふだんは掃除当番をサボッてばかりの三人が




この時ばかりは真剣そのものの面持ちで




さっそく忌まわしい物体の除去作業に取り掛かった




だが程なくしてボクたちは




事態が予想外に憂慮すべきものであることを知る




教室の床あたり一面に撒き散らされたソレは




固体ではなく




さりとて液体でもなく




謂わばその中間のゲル状の物質で




手で掴むことも




かといって雑巾に吸収させることもままならない強敵なのだった




しかも凄まじい量である




ボクたちはすぐに悟った




コイツを除去するためにどうしても必要な道具がある




ヘラだ




ヘラしかない




だけど教室にヘラなんてない




何かヘラの代わりになるものはないか?




教室にあるチリとりはカサ張って上手くさらうことができない




学校の向かいにあるお好み焼き屋のオバハンに




適当なこと言って「てこ」を借りてこようか?




いやいやそれはマズい、完全なる墓穴だ




ボクらも学校帰りにその店に寄ってお好み焼きをよく食べる




それでは自分の箸で汚物を拾うようなものだろう




そこで一計を案じたボクたちは




教室の机の中にあるみんなの下敷きを片っ端から集めた




コイツをヘラの代わりに使おう




狙いはドンピシャ




作業は目覚ましい進捗をみせた




ものの十分で床をキレイに片付けたボクたちは




次いで二十数枚にも及ぶ、キタナラシイ下敷きを和式の便器で洗浄して




それらを元通りみんなの机に戻した




そしてナナを教室から出し、講堂の裏手のいつもの場所につないで




何食わぬ顔をして次の授業を迎えたのだった




やがてチャイムが鳴り先生が教室に入って来た




続いて大勢の視察団がみんなの後ろに陣取る




結構な人数だ




20人はいるんじゃないか




小西先生はいつになく緊張の面持ちで理科の授業を始めた




心なしかいつもより早口だし、声もうわずっているようだ




しかもおそらく前の晩から考えたであろう、練りに練ったジョークが




ことごとくスベリ倒している




いつもと違うよそいきのギャグに静まり返る子どもたち




そして時折視察団から漏れる失笑




だめだ先生そこでホッとした顔してちゃ




笑わせたんじゃない笑われたんだってば




先生の緊張はしだいに子どもたちにも波及して




教室はますます重苦しい雰囲気になっていった




授業開始10分にして早々に心が折れ気味の小西先生は




説明もほとんど棒読みになり、カンペを用意しているのがバレバレだ




しかし能面のような表情のまま、小西先生が発した次の言葉は




どこか他人事のように授業の様子を眺めていたボクの心臓を




いきなりアイスピックでひと突きにするような衝撃を与えた




みんなは




「せいでんき」という言葉を聞いたことがあるかな




知ってる人は手を挙げて




はいそうだね




冬セーターを着たときなんかに




金属の手すりやドアノブでバチッと




痛い思いをしたことがあるんじゃないかな




今日は




その静電気を実際に発生させてみようか




きのう連絡した通り




みんな下敷きは持って来ているかな




頭の中で虚ろに響く先生の声を聞きながら




ボクは自分がいつの間にか




窮地に追い詰められていたことを悟った。


(つづく)