俳句集 伊泉不洋
見上げたる土手の緑に小春風
枯れ色が多くなる冬、ふと見上げた土手に残る緑に、穏やかな小春風が吹いている。ささやかながらも暖かな発見。
樹に埋もれ新田跡や滝響く
樹木が深く生い茂った中にかつて開墾された新田の跡があり、その傍らで滝の音が響く。時の流れと自然の力強さを感じる。紀州流土木は河川を直線化し段差や急勾配を生じさせ、蛇行部分を新田として開発した。滝と新田は開発によるセットであったと言える。
栗の花鈴なり眩し神宿り
栗の花が鈴のようにたわわに咲き、まばゆいばかりで、神楽鈴にも似ている。その豊かな姿に、自然の神々しい力を感じ取る。
黄金舞う鎮守の杜や野狐朧
春の夜の朧に社の杜で狐が跳びはねる様子は、月明かりが狐に反射して黄金が舞うようであった。神秘的で幻想的な情景。
キリギリス星空へ声響かせし
小さなキリギリスが、その声を遥かな星空にまで響き渡らせるかのようだ。秋の夜の静けさと、生き物の純粋なエネルギーの対比。
蜩の響く山の端黄泉の道
蜩の鳴き声が響く山の頂きは、この世とあの世の境目「黄泉の道」のように感じられる。秋の夕暮れの深く哲学的な静けさ。
花の間の蝶舞い上がり逃げ上手
咲き乱れる花の間で、蝶が軽やかに舞い上がり、捕まえようとする手からすり抜けていく。春の日の自由と生命の軽やかさ。
コスモスや星空仰ぎテレパシー
コスモスの花畑の下、広大な星空を見上げることで、言葉を超えたつながりや思いを想像する。秋の澄んだ空気が生む幻想的な心象風景。コスモスの花の形はパラボラアンテナにも似て空を向き交信しているかのよう。
先達の高き水面よ鰯雲
遥か昔の人々が見上げたであろう高くて広い大空の海面近くを泳ぐかのような鰯雲。歴史的な重みと、変わらない自然の造形美を感じさせる。先人の成し遂げた事績や理想の高さにも重ねて尊敬の念を表現。
麦の秋麺をすすりて沃野見ゆ
麦の収穫期に、麦から作られた麺をすすりながらそれが育まれた肥沃な大地を遠望する。食べることと自然の恵みへの実感。お遍路の地の平野と瀬戸内海の豊かさを眺めて。
闇見つめ虚しくてなほ原爆忌
黙祷の闇、あるいは心中の闇、世界中の現在の闇を見つめ、虚しさを感じながらも、原爆の悲劇を忘れない。平和への強い決意が滲む。個としての無力感と、ボトムアップの歴史への一筋の期待。
カーブ抜け眼下眩しや夏の海
車やバイクで山道やトンネルのあとに、カーブを抜けた瞬間、視界いっぱいに広がる夏の海のまばゆいばかりの輝き。一気に広がるスピード感と開放感への感動。リアス式海岸の風景。
野遊や子ら大の字に風包む
野山で遊ぶ子どもたちが、大の字になって風に包まれている。開放感あふれる春の情景と、生命の伸びやかさが感じられる。奈良若草山、潮岬灯台草原などの風景。
花冷や花咲かダンス子ら跳ねり
桜の時期の寒さの中でも子どもたちが「花咲か」の踊りのように元気いっぱいに跳ねる。寒さと生命力の対比が微笑ましい。大阪城公園などの風景。
山茶花を見上げた子の背今見上げ
幼い子が山茶花の生垣を見上げていた、その時の子の背中を思い出し、今、作者自身が同じように山茶花と子の背を見上げている。時の流れと追憶の情。実家の庭で。
馬頭琴風に乗り聴く後の月
後の月の澄んだ光の下、風に乗って聴こえてくる馬頭琴の音色。遠い異国の文化と、日本の秋の夜の趣が融合する。
木漏れ日のつらつら椿熊野灘
熊野灘の温暖で雄大な海の傍、椿の生垣が両側にあり、さらにトンネルのようにその椿の生垣が続く小道に、椿の葉の間からこぼれる木漏れ日が、連なるようにキラキラと輝く。壮大さと微細な美しさの共存。太地の高台からの眺めと風景。
春雨や紅茶の香り煙る窓
静かに降る春雨の日、リビングの小窓の向こうは煙るような景色。暖かい部屋で紅茶の香りに包まれる、安らぎのひととき。実家の休日の午後景色。
パノラマやモノラックゆく蜜柑山
視界いっぱいに広がる景観の中、生活と密柑山の農作業の道具であるモノラックがゆっくりと移動する。密柑山の連なる産地の雄大さと日常感が調和した、静かで明るい冬の情景。紀伊半島の風景。
お揃いのセーター干しつ雲編みたし
夫婦や家族のお揃いのセーターを干すほほえましい光景と、「雲を編みたい」という詩的な願望が結びつく。冬の晴れ間の優しい叙情。
新酒酌み酒蔵跡の父母の影
新酒を酌む喜びの席に、今はなき父母の面影を酒蔵の古い佇まいに重ねる。伝統と記憶が溶け合う、しみじみとした情感。閉鎖、縮小された酒蔵跡を偲ぶ。
溢る星夜風に偲ぶ夜長かな
満天の星が降り注ぐような夜に、夜風に吹かれながら何かを遠く思う。ロマンチックな星空と、物思いに耽る秋の静けさが響き合う。
雷や手のしわ照らし運命線
激しい雷の光が、ふと自分の手のひらの皺、すなわち運命線までも照らし出す。一瞬の光の中に、生の根源を見つめるような緊張感。稲光と手相の線重ね合わせ
研ぎ澄まし気配刹那や蜘蛛の狩り
研ぎ澄まされた集中力と、獲物を捉える一瞬の緊張感が表現されている。「刹那」という言葉が、小さな生き物の真剣な営みを際立たせる。
麦の秋戦地想いてパン捏ねり
収穫を控えた麦の季節に、平和な日常の中でパンを捏ねながら、遠い戦地の悲劇に思いを馳せる。平和への感謝と祈りの念。
夕映えや鳥雲に入る影法師
西の空の美しい夕焼けを背景に、渡りの鳥が雲の中へ消えていく。その光景を見つめる作者の影法師が、別れと旅立ちの情感を深める。
兄妹や混ぜつ加えつ寒卵
寒い時期の貴重な卵を、兄妹が力を合わせて料理に使おうとする姿。幼いながらの共同作業と、冬の食卓の暖かさが伝わる。
落葉踏み落つ前見上げ白無垢よ
地面に積もった落葉を踏みながら純白の衣装を纏った花嫁が見上げると、鮮やかな紅葉の木々の庭園が広がっている。生と死、色彩の対比が鮮烈なドラマを生む。名古屋八勝館庭園にて。
立冬や大気丸ごと入れ替えり
立冬を迎えることで世界全体の空気が一新されたように感じる。清々しい、壮大なスケールで季節の変わり目を捉えている。南洋からの暖気と北方や大陸からの寒気のせめぎあいの季節の終わりと始まり。
芒揺れ孤鳥晴れ間に影遙か
静かな秋の景色の中、芒が揺れると同時に、一羽の鳥が飛び立ち晴れ間の空へあっと言う間に飛び去った。寂寥感とともに、広大な自然の奥行きを感じる。
蝸牛ゆらり自適の軌跡かな
蝸牛がゆっくりと、しかし確実に進む軌跡を、「自適」という言葉で捉える。小さな命の、自分らしい生き方への共感。
子の未来色とりどりの薔薇に込め
庭に咲き誇る色とりどりの薔薇に、我が子の無限の可能性と明るい未来への願いを託す。親の愛情と希望の景。
陽だまりに目を閉じ偲ぶ暖けし
暖かい日差しの中で目を閉じ、過去の温かい記憶や人を偲ぶ。冬の日の、身体と心に染み渡るような安らぎ。
島々に黒潮香る百千鳥
島々を渡る鳥たちの賑やかな声とともに、黒潮の潮の香りが漂ってくる。南国の春の、生命力あふれる空間的な広がり。小笠原諸島、伊豆群島などの風景。
兄妹や動画魅入りてお雛様
雛祭りの日、兄妹が揃って動画に夢中になっている現代的な風景。伝統行事と現代生活が同居する、微笑ましい一コマ。
石ひとつ影伸縮す十二月
簡潔な言葉で冬の情景と時間の流れを鮮やかに描き出している。冬至までの影が伸びてゆく日々と、冬至後の影が短くなっいく日々について、神社の石や庭石の影を見て気づかされた。
炎天に番水つなぎ気を張りつ
酷暑の中、水を確保するための番水リレーに緊張感を保って取り組む。夏の厳しさと、生活を守る人々の真剣さ。日照りに不作無しと言われた古来の知恵。
水澄むやあの世の境淵碧し
澄み切った水の色が深い青(碧)を帯びて現世とあの世の境目であるかのように感じられる。人里から離れた神秘的で清らかな秋の景。
河童忌や緻密に照らす時の闇
芥川龍之介の命日である河童忌に、彼の作品が照らし出す、人間の心の奥底にある「時の闇」に思いをはせる。
あかね空のどごし香るビールかな
美しい茜色の夕焼け空の下で飲むビール。のどごしに広がる香りが、一日の終わりに至福の瞬間をもたらす。
冬凪や波間に曙光見出しつ
冬の海の静かな波間に、夜明けの光、希望の光を見つけ出す。静けさの中にも、新たな始まりを感じさせる力強さ。
子曰くと子規の言霊子規忌かな
正岡子規の命日。子規の残した俳句や言葉の魂(言霊)が、孔子の「子曰く」のように、今も生き続けていると感じる。韻を踏むような軽快な流れ。
天狗闇を吸い煌めく霜となす
伝説の天狗が闇としての悪霊的なものを吸い込み、それが清らかな輝きを放つ霜となって地上に現れる。幻想的で壮大な冬の景。邪悪の闇を吸い尽くす、魔除けと浄化のような景色。煩悩の塊と悪鬼を追い払う物語。
星降りし跡深山に霜覆う
星が降ったかのような神聖な場所のように、深い山々に霜が降り積もっている。宇宙的なロマンと、厳粛な冬の美。
戦火聞き静寂の庭春待てり
現代世界が抱える問題と個人の静かな生活を対比させた句。休日に実家の庭園を眺めて。
河豚無敵と言えども共喰いに屈す
自然界の厳しさや皮肉を描いた、独創的な句。
出立を仰ぎ見たるや草の花
旅立ちと、それを静かに見守る自然(草の花)との対比の句。優しい応援や少しの憧れなど。