場末のお月様『その8』
この夕陽ヶ丘の居酒屋は、漂う匂いが良い。
眩しくない程度の燻んだ照明の雰囲気も良い。
モツを煮込んだ匂い、焼き鳥の香ばしさ、イカ焼きや焼き魚の残り香。
それらが微妙に混じり合って、この店を場末の名店にしている。
禿げた頭に青いバンダナを巻いた親父が、今日は小麦粉をこね、伸ばし棒で餃子の皮を作っていた。
品書きには載せてはいるが、滅多に注文はない。
だが今日は常連の山本君からのご指名。
一瞬断ろうと思ったが、その真剣な目を見て思い直した。
品書きにあるからには、一人前でも出さにゃならない。
どうせなら、本物の餃子を食わせてやろう──親父はそう思った。
「ちょっと時間かかるけど、いいかい」
「悪いね、親父さん。無理言っちゃって」
山本君は近くのコンビニで働くアルバイト。
この店に来るのは月に一度、給料日の夜だけ。
だが親父は彼を覚えていて、むしろ来るのを楽しみにしていた。
たった一本の熱燗を、時間をかけて堪能する。
最後は温燗になってしまうだろうに、とにかく味わって飲む。
その姿が親父は好きだった。
料理はいつもホッケの干物。北海道から来たと言っていたっけか。
「出来たよ、どうぞ」
香ばしい匂い、程よい焼き目。
餡にはキャベツ、ネギ、ニラ、ニンニク、豚ひき肉。
素材は単純だが、心を込めて練らなければ一つに馴染まない。
火加減、水加減、炎の入れ方。
そして蓋を開けたとき、音を立てて餃子は完成する。
親父にかかれば、餃子はまるで子どものように無邪気な顔をして仕上がる。
「美味しそうだね」
山本君は目を輝かせる。
「美味いに決まってるじゃねえか」
親父も自慢気に言った。
だが山本君はなかなか箸を出さない。
酒を口に含んだまま、じっと餃子を見つめている。
「どうした、食べないのかい」
「目に焼き付けておくんだよ。本物の餃子をね」
そう言うと、おもむろに一口。
歯触り、舌の感触、咀嚼の喜び──その全てを記憶に刻む。
「美味そうに食べるねえ」
親父が感心すると、山本君は静かに答えた。
「実はね、もうしばらく餃子は食えないんだ」
「なんか訳がありそうだな。どうした、山ちゃん」
「明日、試合がある。負けるわけにはいかないんだ」
「試合と餃子に、どんな関係があるんだい」
「親父さん、テレビ見ててよ。餃子の大食い大会があるから」
「なんやそれは」
「試合になったら餃子はもう敵だ。味も香ばしさも関係ない。ただの手強い相手になるんだ」
「じゃあ今日は、なんで」
「だからさ。本当に大好きな餃子の味を、忘れたくなかったんだ」
「へえ、そんなもんかねえ」
「僕は絶対優勝する。毎日、水を死ぬほど飲んで胃袋を膨らませてきた。親父さん、ホント死ぬほどだぜ」
「なんでまた大食いなんぞに」
「貧乏だったんだよ、国では。一度でいいから思い切り食べてみたくてさ。勝てば世に出られる。コンビニのアルバイトで一生終わるなんて、もう耐えられないんだ」
親父はその剣幕にたじろぎながらも思った。
──コイツは夢を見てる。夢を見てるんなら、応援してやろうじゃないか。
山本君は最後の餃子を平らげると、深く頭を下げ、店を後にした。
「負けんじゃねえぞ。テレビ見てっからな」
声は届いたかどうか分からない。
「アイツも博打打ちだな」
親父はそう呟いた。
闇夜に浮かぶまあるいお月様。
誰かを応援しているのか、一際明るく笑っていた。
by Konoe73