そうしてこうして、このあどけない純情無垢の少年も、二年生の終わりには、はや運営委員に推され、この大世帯の中心としてその重責の一端を担うまでに成長するのであります。その頃には、泥棒、山賊等悪役をやらせては天下一品、小生の人形は縦横無尽に活躍するのである。

何事も道をきわめるということは大変なことだ。自分で言うのもなんだが(もっとも人が言ってくれないから言うんだが)、或る時小生の舞台を見た専門家が、「あのサーカスの団長?」ときいたそうだ。説明係の部員が、「これこれしかじか」と答えると、「そうですか、「あれが今をときめく芸術院会員、無形文化財・」のと言ったかどうかは別として)さすがに違う」とうなったそうだから、あっしの人形は芸の域にまで達していたのは客観的事実。それに、例の、”チロリン村”の当時、正月番組で人数が不足し、救けてくれと依頼された時なんざあ、うちの若いもんを数名貸してやったこともある。モグモグさんとか、かまきり牧師なんざ、ワシんとこの若いもんがやったのですぞ。


さて、小生のクラブは学校の中ばかりで、がやがや、やっていたんじゃない。春夏冬の長期の休みには、都内は勿論、地方へもドサまわりをやる。これは機動性を重んじ、小人数で何処でもやれるよう工夫されている。大舞台と異なり、みんなのびのびやる。 "ヒヨウタン島”のように流行語や新語のアドリブをポンポン放って、やってる当人達も楽しんじゃう。学校や教会でやる時もあれば、特殊施設、バタヤ部落、僻地、開拓部落と何処へでも我がリュック部隊ははいり込む。これは単なる公演ではない。地域の人々とも話し合う。泊り込んで彼等の生活の中にじかに入っていくという体当たり戦法。まあ、あらゆる階層、広い地域の人々の生活の体臭といったものを、ほら、例えばアノ話なんか…・・・そうですか。

じゃ次の機会にしましょう。

いずれにしても夢とロマンと汗と涙と、苦悩と感激と、議論と試行錯誤と、人生と哲学と…の渦巻く人形の中の青春でした。

授業と家で寝る以外、クラブオンリーの生活(あっ、忘れていました。チャペルタイムがありましたネ)だったので、マージャンはおろか、パチンコもやらず、デートなどという不良のやることもせず、お蔭様で、悪の道へ踏みはずすことなく、無事卒業出来ました→県立茂原農業高校教諭。それだけに、僕の生徒達はみんな口を揃えて、「先生は真面目過ぎて面白くない」と言います。


 

 

 

さてこの頃になると親もサジを投げる。敗残兵のような恰好で真夜中に帰って来て、ぐったりと玄関に座り込んじゃう。

次代の日本を背負う学究の徒であるからして、「ゼッタイという言葉はゼッタイに無い、と友は言うが、ゼッタイという言葉はゼッタイにあるから、ゼッタイという言葉はゼッタイに無いなどという表現が可能なのだ…」ぶつぶつつぶやくなら大学生としてまともであるが、ふとんの中でまでモシモシ・・・・」などとお人形ちゃんとお話ししてる様はちと無気味。

こうして更に一ヶ月。ホームの階段這い這い学校へ行って、「人形曲っとる!」とどやされ、泣く泣く終電車で帰ってきて、いきなり玄関でぐったりこん、人形ちゃんとおねんねーーこの地獄の貴苦の日々を耐えぬくと、ようやく一心同体、魂が通い、人形が生きてくるようになる。

初めての公演の時なんざ今だに忘れられないな。部員数六十有余。一人一人ががむしゃらになって、二ヶ月も三ヶ月も準備するのだ。当時の金で総支出がざっと六万余円、観客動員三千余、上演時間二時間半、題して"ピーターパン"。あっしは海賊の子分でやんした。開幕前の雰囲気ーあれが何んとも言えないんだな。ジーンときちゃうね。セリフぶつぶつ、トンカチかたかた、効果びしゃばちゃ、観客ざわざわ。1幕の穴から、そおっとのぞいてみる。中はびっしり。いくらジャリが多いとは言え、鬼よりこわいOB諸氏。折あらばケチをつけなんとする他校の部員達、教育ママから専門家と、大人達もかなりいる。思わず身体がこわばる。幕のこちら側は闇だ。その闇の中を皆んな服装だけでなく、動作も音をたてずに這うようにして走る完全な忍の者。やがて一つの懐中電灯の下に音もなく集まる。「いいか落着いてやれ」太いバスが闇を震わす。人形を着けたまま身体のふるえが止まらない。

「ライト、いいか。小道具、そろってるな。効果、水に注意。舞台転換、素早くがいのちだぞ」一言一言、ゆっくりと百地三太夫の声が闇の中を波紋のように拡がっていく。「キャストは思いきって大きくやれ」人形をにぎっている手に汗がじっとり。

「パートについて」その声で、黒い影は音もなく散る。開幕のアナウンス。懐中電灯の光が舞台のそでにさっととぶ。幕が引かれる。一瞬シーンと静まりかえる。思わず生つばゴックリコ。心臓ドッキンコ。観客の吐息がサワサワッと肌に伝わってくる。冷汗が黒頭巾ににじむ。一ーあとは無我夢中だ。セリフが他人の口から出ている感じ。舞台転換の時だけ我に帰る。照明がフェイドアウト。幕が引かれる。

細い光のすじがとぶ。黒い影が空間を走る。一糸乱れず、まさに獲物を狙う忍の者達の殺気。ほんの一瞬である。一秒の何十分の一も間違ってはならない。気の狂いそうな瞬間である。神経がピリピリッとする。ちょっとでも何かがタイミングをはずそうものなら、ガラガラと音をたてて崩れ落ちてしまう恐ろしい緊張感。舞台の闇の中で、茫然として目を見はったものでした。

つくづく感じました。個と個が火花を散らしてぶつかり合って生ずるこの和なんですね、僕の求めていたものは。勿論、舞台に現われない部員達の努力も並大抵ではないんです。無から有を生ずる、その過程での人間同志の心の触れ合いーーこれに.目覚めたのです。

「ね、衣裳の生地捜しに行くんだから一緒に来てよ」と言われ、お姉さん部員のあとからトボトボと宮益坂を下って、女の店”東亜”に入ってはポロポロ涙を流し(何んでかわかりますね、女の子なら)ビラ配りに疲れた身体を神社の境内の夕闇迫るベンチに横たえては、落葉焼く立ちのぼる煙の中に「秋の日のヴィオロンのためいきの…・」と口ずさむ先輩の横顔がゆれ、そこに人生のいくばくかを感受し、しみじみと語り合い----


 

 


 

 

 

それからの毎日が大変。「いいか、電車の中では間違っても座わるな!釣皮だぞ」と、おっかない上級生ーーーあのう、このように男子部員もいました、念のため。この吊革ちゅうのは、つかまるのや、おまへんにゃ。あの重い新聞紙で固めた人形を、下から二本の腕で支えるための訓練だす。即ち、つかまっているフリをするのや。

電車の中で釣皮以外のところでやったら、”降参”のスタイルになってしまいますねん。山手線をぐる~~まわらされることもある。(あれは、やっぱしキセルになりますかね?)それに、御丁寧に、部室へ行くとちゃんと、にょうきにょきの人形群に交って、この釣皮が天井から下っているのである。何処かの電車から引っこ抜いてきたものらしい。次に”腰の鍛錬”。屋上で兎とび。運動部じゃあるまいしネ。

 

トレパン、運動靴スタイルでピョンピョコピョンピョコ。「まだまだっ!」と背後からどなられる。それでしまいにはピョピョになってしまう。これが辛くてねエ。腰がぬけちまって、行き帰りの駅の階段==あれが降りられなくなっちまうんだ。

這うようにして小岩の自宅に帰宅したとたん(ここんとこ、アズスーンナズと英訳するんだネ?)ぐったりこんと動けなくなってしまう。更に進んで、今度は両手を上げたまま中腰での歩行訓練。これを校庭でやらされるんのや。水を求めて川の中へ次々と入っていく被爆者の群じゃあるまいし、見せられたもんじゃおまへん。多勢の女子学生が見てんねん。こうした泥まみれの地獄の日々ーーでもこの時のお蔭で、ほら僕いい腰してるでしょ。バスケットを教わっていたら生徒が言うんですよ。「先生はいいケツしてるからすぐ上達するよ」ってね。ズボンなんか駄目なんです。

さて、いよいよ人形が与えられる。(以後寝食を共にする訳だ) おててぱちぱち。おかしらぐーるぐる。はい前と後におじぎして。右や左の旦那さま。あかんべえのきいぽっぼ。いいか、チョーク投げるから眼で追ってー」てな具合に基礎操作の開始。

セリフのほうもこれと平行して鍛えられるんねん。何しろモシモシ一つにしたって、言い方はわんさとあるそうだ。「モシモシ」ー「違う!」。「モーシモシ」ー「違う!」演出様は自分でサンプルを示してくれず、ただ「違う!」とどなるだけ。あとは「考えてこい!」で終わりとなる。

仕方がないから、道を歩いていても電車の中でも「モスモスイ」とやる。なにしろ前途ある身でまともな顔してぶつぶつ言ってるんだから、人々はこちらの顔をのぞきこんで首をかしげるのも無理ない。授業中だって机の下の人形をいじりながら、「モソモーソ」なんてあらぬことを口走っちゃうから、「ミスタ、ヨシ**。エニイ、クェツション?」なんて爆弾が投下されちまう。一斉に女子学生の視線を浴びる。ぽかあ白い部分と黒い部分しかない目ん玉を一生感命白黒させるだけだ。男子学生が数える程しかいないので、何時も目立たないように教室の隅っこで小さくうずくまっているというのに、圧倒的な女生群の嘲笑のまなこ。ああ今から思えば、ぬぐおうとしても一生ぬぐえぬボクのこの女性恐怖症は、こうして培かわれたんだなあ。