おはようございます。
今日で震災から4503日目です。
私は死生観を追求するのが幼少期からのライフワークとなっています。
ここでも ちょこちょこ書いていますね(^_^;)
死んだ後に どうなるのか?ということに とても興味があり 半世紀近く真剣に掘り下げ続けています。
先ずね「死」とは何か?ということを定義しなければならないのですが、今生における肉体活動の停止という風に私は捉えております。
肉体活動の停止 ということは、肉体を消失しても精神(自我)は期間限定で消失しないのではないかと思っています。
ですが、私たちが 自分を認識出来るのは 、自分という肉体(アバター)が存在すればこそであって、肉体が消失して その枠が取り払われた後は、時間をかけて 集合的無意識に溶け込んでいくのではないでしょうか。
自分を自分と認識出来るのは、肉体が存在するからですよね。
肉体が亡くなった後に もし自我が残っていたとしても、物質世界で自分が存在したことを認識出来るのは、自分と関わりを持っていた方々や 痕跡が存在するからです。
でも月日が経ち 自分と関わりを持った方々も消え、自身の存在した痕跡も殆ど無くなった後でも 自身を自分と認識し続けることが出来るのでしょうか?
また自分を自分であると認識し続けることに意味はあるのでしょうか?
私は その段階まで行くと 意味を見出だすことは難しいのではないかと思います。
それに伴い 自我は消失していき、自分という認識は消え、より高次な存在へと昇華されるのかもしれないな~・・・と都合よく想像しています(笑)
個としての認識が消失した後の意識とはどのようなモノかは想像も出来ませんが、言語化することは出来なくとも なんとなくは自分の中でイメージすることは出来ます。(全然 的外れな気もしますが・・・😅)
いくつかのモデルは考えていますが、どれかに当てはまるような気はするんだよな~
最近は 「生きている」ということ自体に疑問を抱いているのですけどね。
人間にとって都合の良すぎる この世界にね。
肉体が 自身を物質界に顕現させる為の窓口であるということは 確かなんです。
どの窓口へ向かうかで 経験が変わり、学習内容が変化をする、その期間が人生なのだと思っています。
人によっては ただの屁理屈に聞こえるでしょうけど、こういう捉え方をすると 人生に対する向き合い方が変わるんです。
それが 正しいかどうかなんて 誰かと論じたいとは思っていません。大体 実際に死ななければ その先は解りませんし、解ってもそれをこちら側にフィードバックさせる手段もありませんしね。
でも だからこそ 、そこにスポットを当てて 向き合っていくことに意味があるのだと 私は思っています。
全ては自己満足ですけどね、私なんかは その先があるかないかで 生き方は変わるように思うのです。
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