685日目
誰にでもできる・桑野空手教室
おはようございます。
今日で震災から685日目です。
先日も体罰について書きましたが、考えれば考えるほど難しい問題だということが解ってきます。
そもそも体罰、体罰と騒いでいますが体罰ってなんでしょう?
学校教育においては正座をさせておくことや、廊下に立たせておくことも体罰の範疇らしいですね。
学校の教師から殴られ蹴られ投げられていた私達の感覚からは、それが体罰という認識はありません。
殴られたりしても「自分が悪かったらしょうがないや」と割り切っていましたし、納得出来ない人間は教師にも突っ掛かって行ってました。
時代なのでしょうが教師も生徒も父兄も現代と比べたらみんなタフだったな~って思います。
さて前述のように正座させることや廊下に立たせることが体罰であるという定義になると、ほとんどのことが体罰になってしまいます。
では体罰はダメで、罰は必要ということでしょうか?
例えば宿題のプリント一枚多くやって来なさいという罰と廊下に立たされる罰の違いとは?
罰を受ける生徒の感じ方もマチマチでしょう?
宿題が多いほうが苦痛に感じる子供もいれば、廊下に立たされることが苦痛に感じる子供もいるでしょう。
それとも肉体的な罰はダメだけど、精神的にプレッシャーを与える罰はいいのですか?
もし苦痛に感じる度合いが大きいものが体罰なんだとしたらその境界線があまりにも曖昧です。
二つを比べた時に解るのは廊下に立たされると勉強が出来ないけど、宿題を多めにやらなければならない場合だと勉強をしなければならないということでしょうか?
これって罰を受ける当人である生徒は置いてけぼりで、学校や教師がPTAから苦情が来ないように配慮しているだけのような気がします。
そもそも法治国家である日本はルールを守らない人間に対して罰があります。
その究極は死刑です。
っで………これって体罰ではないのですか?
死刑が体罰だと認識した場合、国家や社会は体罰を認めているわけですよね?
なんか矛盾しているように思います。
ちなみに私は死刑反対ではありませんし、体罰容認でもありません。
もしあなたが罰は全てダメであるという立場の場合、どのようにして国に秩序と平和を与えますか?
現在、体罰、体罰と騒いでいる風潮が短絡的に良いか悪いかと二者択一にしてしまう前に、罰とは何かという定義を今一度ジックリ考えてみる必要があるのではないでしょうか?
浅いレベルで表面的に騒いでも根本的な解決になどなるわけがありません。
こういう大切な問題に対して教育委員会は日頃どれほど腐心されているのでしょうか?
また、それは…親子さんや私も含めて子供達に関わる全ての人間に言えることだと思います。
罰(ペナルティ)がオッケーなのだとしたら、方法論としてどのような形が望ましいのか?
罰を受ける人間の苦痛や反省の度合いはどのように見極めるのか?
一番大切なのはルールを犯した子供に改善してもらうという結果を導き出すということです。
教師は教育者として結果を出さなければならないのでしょうから。
現在の問題を体罰にだけ焦点を合わせて騒いでみても何の解決にもなりません。
時間が経てば全国のどこかでまた同じ問題が必ず起きます。
こういう悲しい出来事が今後起きないように願うならば、もっと問題の根幹まで分け入って考えていかなければなりません。
果たしてそのようになって行くのでしょうか……喉元過ぎれば熱さ忘れるという流れにならないことを祈っています。
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