4月5日晴れのち曇り予報 

品川宿本陣に立つ前に「御殿山」に向かった。

ここは徳川将軍の鷹狩の際の休憩所(御殿)があった所だ。

桜の名所として知られているが、まだ朝も早いせいか静かに散策できた。

若葉深く桜吹雪が始まっていた

 

本陣跡に戻り川崎宿目指して歩き始める。

青物横丁に来た。

時代を感じるいい場所だ     こんな街好きだなあ

江戸時代から青物の市場があり、八百屋が軒を並べて賑わったという。

品川寺(ほんせんじと読むらしい)には江戸六地蔵が露座している。

***江戸六地蔵・・江戸への主な街道の入り口に建てられた6つの地蔵菩薩像   ***

 

立会川へ向かう。

品川駅から京急線で10分ちょっとなのにホッとする空気だな

しかし、歴史的には・・・

開国を迫るペリー来航に続く黒船騒動の渦中、のちの倒幕・明治維新につながる激動の時。

幕府は江戸防衛の為、諸藩に沿岸の警備を命じた。

立会川は土佐藩下屋敷があった所で、土佐藩は浜川砲台を築き8門の大砲を設置し警備に当たった。

若き坂本龍馬も、藩の命を受けて警備に当たったという

    龍馬の心中は・・

かっては目の前が東京湾だったが、今は埋めたてられ運河になった。

見落としてしまいそうだが、浜川橋が掛かっている。別名「泪橋」。

この橋を通ってこの先の「鈴ヶ森刑場」へ引き立てられていく罪人をここで涙して見送った。

その鈴ヶ森刑場跡に向かう。

歌舞伎の題材にも出てくる八百屋お七や丸橋忠弥はここで処刑された。

八百屋お七とは・・  丸橋忠弥とは・・

日光街道南千住には「小塚原刑場跡」がある。その少し手前にも泪橋がある。

 

重たい気分で京急大森海岸駅まで来ると、しながわ水族館があったので入館した。

それほど大きくはないが子供連れなどで賑わっていた。

「イルカショー」が主役なのはどこも同じかな

 

気分も入れ替わり、また延々と歩く。品川区から大田区になった。

吞川の「夫婦橋」を渡ると京急蒲田駅。

昔は松竹蒲田撮影所があった。

JR蒲田駅の発車メロディーは今も「蒲田行進曲だ」。メロディーが懐かしく浮かび駅まで聴きに行った。

      曲の「蒲田行進曲」は松竹蒲田撮影所を題材にした歌で所歌として歌われていたものが           

      レコード化された。

      が、映画の蒲田行進曲(松坂慶子主演)の舞台は松竹蒲田撮影所ではないという。

      全く関係のない京都の東映撮影所だと。

      曲も聴いたし映画も見たし、今も薄っすらではあるが記憶にあるが、その映画の舞台が蒲田撮影所 ではない   とは今の今まで知らなかった。

      いろいろ情報検索してみて書かれている事はそうなんだと思っても、まだ頭の整理が追いつかない。

          ~5月12日、帰宅してテレビのBS松竹東急をつけたらなんと言う事でしょう

          「蒲田行進曲」を放映していた~

 

しばし休憩ののち歩き始める。街道に沿って京急線の雑色駅(ぞうしきえき・・なかなか読めない)・・六郷土手駅

そして、いよいよ多摩川に架かった六郷橋を渡る。

     多摩川河川敷

貞享5年(1688)の洪水で橋が流出後、なんと明治7年(1874)まで橋は架けられなかった???

六郷の渡しの舟賃は今のお金で300円くらいだった様だ。

多摩川沿いには梨園があった・・長十郎梨は川崎が発祥の地らしい

ついに「川崎宿」に入った。

川崎宿は、品川宿と神奈川宿の間が長かった為、後で三代将軍徳川家光によって追加制定された。

残念ながら川崎宿は宝暦11年(1761)の大火で焼失したため、当時の様子はよくつかめない。

案内板を見るしかなかった。

 

今日は朝から晴れマーク

神奈川宿に向かう前に厄除け寺の川崎大師に寄った。

朝から賑わっていた

 

川崎宿京口入り口外れ、八丁綴の手前に松尾芭蕉の句碑がある。

      芭蕉句 麦の穂を頼りにつかむ別れかな

元禄七年(1694)故郷の伊賀上野に帰る時、見送りの門弟たちと茶屋で句を詠み合いここで別れたが道中亡くなった。51才の生涯を閉じた。

 

川崎区を出て鶴見区に。

鶴見川を超えると鶴見神社がある。

境内で蛙の石像が見つめていたので縁起担ぎに撫でた

 

JR線/京急線を右に見ながら進んでいくと、JR鶴見線国道駅と言う無人駅に出会った。

薄明りのトンネル??の中に改札が・・

朝夕の時間帯は結構本数多いな・・昼間はムム 京浜工業地帯への通勤電車だね。

昭和のど真ん中にタイムスリップした様な不思議な空間

映画に出てくるようなと思ったら、多くのロケに使われている。

木村拓哉の「華麗なる一族」のワンシーンにもあるらしい。

電車に乗ってみたかったが、今日は前に進まなければならないので近いうち時間作って乗ってみよう。

ここは「生麦」だ。「生麦事件」はここで起こった。

分久2年8月21日(1862/9/14)薩摩藩主島津久光の行列を騎乗のまま横切ったイギリス人リチャードソン他を激高した薩摩藩士が殺傷した!!

リチャードソンは逃げ戻ったが落馬して、追いついた藩士に殺された。

のちに鹿児島湾を舞台にした薩英戦争が起こる。

双方大きな傷を負うが、やがて薩摩藩はイギリスと同盟を結び軍備の近代化を図る。

・・・時は動乱の幕末 明治維新へと向かう

慶応元年(1865)には若き19名の使節団・留学生を送った。五代友厚や森有礼もこの中にいた~~鹿児島中央駅広場に「若き薩摩の群像」モニュメントがある~~

街道沿いのキリンビール工場脇に生麦事件碑がある

 

歴史をかみしめながら3キロほど歩き、「神奈川宿」の江戸口に入った。

京急神奈川新町駅がある。

神奈川宿は、江戸湾と全国の港を結ぶ中継地として栄え、諸外国との交渉ごとの場になり開国の舞台になった。

領事館として与えられた寺が多くある。

慶雲寺は浦島寺ともいわれる。浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる観音像が祀られているようだ・・・浦島伝説は全国にあるが、こういう伝説ならいいね

浦島寺にはフランス領事館が置かれたが、彼ら外国人は浦島伝説を理解できただろうかな

 

宣教師&医者のヘボン博士はここに診療所を開いた

良泉寺の住職は領事館に充てられることを快しとせず、本堂の屋根をはがして修理中であるとの口実を付けて、幕府の命令を断った!!・・

幕府の力が弱くなっているとは言っても肝が据わって頭の回転もいいねぇ

 

坂本龍馬の妻おりょうさんが、勝海舟の紹介で龍馬亡き後2~3年働いたと言う料亭田中家がある。

文久3年(1863)から続いている老舗料亭だ。

この辺りは当時、神奈川湊を望む風光明媚なところで多くの茶屋が軒を連ねていた様だ。

 

 

日本橋から神奈川宿まで、幕末から明治に向かっての夜明け前の歴史を歩いた。

これからもどんな楽しみに出会えるのだろう!