11月3日、大田原宿から鍋掛・堀越宿まで街道は12~13キロだが今日も横道にそれるだろうな。
大田原宿は大田原藩一万二千石の城下町として、また日光北街道/奥羽道/塩原道とつながり大変にぎわった宿場町でもあった様だが、今は大型商業施設が立ち並んでいて城下町/宿場町のイメージは浮かばない。
大田原・佐久山一帯は那須与一ゆかりの地とかで与一を冠したものがやたらと多い。
実は、那須与一にひかれて9月18日、那須神社の例大祭に来ている。
西那須野駅からコミュニティバスに揺られて50分ぐらいかかった。
楼門は国指定重要文化財になっており、また奥の細道風景名勝地に指定されている。
那須与一が奉納したといわれる太刀があるというが見ることは出来ない。
隣の道の駅には与一伝承館があり、与一が扇の的を弓で射るアニメを上映していた。
大田原藩の菩提寺光真寺や総鎮守大田原神社など神社仏閣が多い。
正法寺の参道には桜が咲いていた・・十月桜かな・・
大田原の出口に(おみやげは無事故でいいのおとうさん)のでっかく書かれた看板があった。
言われてみたらその通り!! なかなか洒落た見送りだねぇ
正午、奥州道中から棚倉街道への分岐点の追分に着いた。
寛永6年(1629年)紫衣(しえ)事件によって流刑の身となった僧、沢庵と玉室はここまで護送され、沢庵(沢庵和尚)は奥州道中へ玉室は棚倉道へと別れたところだと書いてある。
紫衣事件:江戸初期、朝廷が大徳寺や妙心寺の高僧に与えていた紫衣着用を幕府の裁可がなければ着用を禁止した。これに猛抗議した大徳寺の沢庵や玉室らを流罪にした事件。寺院の管理強化で天皇の権威をそぎ、幕府の権力が朝廷の権力に勝るということを示そうとした。
今日の目的地まではまだまだある。
樹齢400年という高野槙(スギ科)があるが、すぐそばは首切り山と呼ばれた刑場跡のようで急ぎ足で去った。
練貫十文字のバス停のバス時刻を見たら方面によって一日1~3本しか走っていない。
明治天皇御駐輩記念碑のところで一息し、昨日買ったまんじゅうをパクつく。
「ようこそ羽田沼へ」の看板がある。横道へ1.6キロの距離らしいが白鳥の飛来地というので行ってみたがまだ飛来0残念!!カモが楽しそう遊んでいる 20人位のアマチュアカメラマン?はのんびり談笑していたが、私は先があるので・・
やっと鍋掛宿・堀越宿に到着。
鍋掛と堀越は那珂川を挟んで距離的には1キロほどしか離れていないが、仙台藩伊達侯が参勤交代の時に、那珂川の氾濫で足止めを食ったことで堀越に小屋を建てたのが堀越宿の始まりとか。
道端の交通安全祈願地蔵尊が道行く人や車の安全を見守ってくれている。
樋沢神社(旧八幡社)の銀杏が黄金に染まっている。八幡太郎源義家が先勝祈願したとある。
鍋掛十文字で帰りのバス時刻を確認し、も少し進む。
延宝7年(1679年)建立の清川地蔵尊は地元の人々の信仰が厚い子育て地蔵尊だ。
芭蕉句碑・・・野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす・・
で今日はおわり。白鳥の飛来地に寄り道したので21キロも歩いたが、鍋掛十文字16時24分のゆ~バスで黒磯駅に向かった。
今日の泊まりは西那須野駅前だ。
夕食はホテルの中の居酒屋が開いていたので外に出かけずここで食べた。
一人でテレビを眺めながらビールを飲んでいるのを見かねてか、店の女将さんがグラスを持って私にも一杯くれる?と言うので注いで差し上げた。
どうもこのホテルの創業者? つまみをサービスして頂いたりして話が弾み結構遅くまで飲んだなあ
~地方の一人旅は話しかけてくれる人がいていい!~