2022年11月20日、街道歩きは諦めたのかと言われるくらい超久しぶりに千住宿本陣跡に立った。

梅雨時と真夏と真冬は歩かない様にしていたので、少し遅れはしたがまあまあ予定通り。

今日はあいにくの雨模様だが、小雨だしこれもまた良い。

 

実はこの間に二回ほど日本橋から街道歩きしている】

 

お江戸日本橋から千住宿(北千住)までの膝栗毛を社内報に載せたところ、思いの外好評で4月3日社員達と歩いている。

一緒に歩いたOさんがこの時のことを「街歩き第二弾」として社内報に載せた。

後日、更に歩きたいとの声が上がり3回目を開催。

この時は社員のお子さんも参加するという嬉しい出来事があった。

久しぶりの街道歩きの前に、そういったことを織り交ぜながらもう一度blog上で再現歩きしてから1120日に戻ります。

 

2021年10月3日、秋晴れの日曜日、お江戸日本橋に立った。

膝栗毛と言うとオーバーなといわれそうだが、数か月温めていた日光街道二十一次を歩く始まりの一歩の日だ。

今日は最初の宿場町である千住宿を目指す。

 

橋の袂の観光案内所の隣に「食品商社国分」がある。

ここが日本橋一丁目一番地一号。

ちなみに国分は創業300年以上の歴史があるというから驚く。

その向かいに建つ漆器の「黒江屋」も300年経つという。

日本橋地域には江戸~明治初期創業という会社が多い。

 

橋を渡った北詰交差点の元標広場に日本国道路元標里程標がある。

里程標にはこの日本橋を起点とし、各地までの距離が示されている。

単位に近頃見慣れない「粁」が使われている。

本物の日本国道路元標は橋の真ん中に埋め込まれている。

皆さんの故郷までは何粁ありますか? 

私の故郷までは1469粁だって!!

 

乙姫広場に、魚市場発祥の地の碑がある。

日本橋川を利用して集められた魚介がこの河岸に集められて、船の上で売買され、一日千両の取引があったといわれる。

解説板の魚河岸の写真からも大変な賑わいだったことがうかがえる。

大正12年(1923)の関東大震災で築地に移転するまで300年も続いた。

 

物が集まるところに人が集まる、人が集まるところに商いが生まれる、両替商や居酒屋、屋台寿司屋(寿司は屋台の立ち食いから始まったのです)、ちょっと歩いて人形町には芝居小屋など。

メトロ三越前駅コンコースに「き代勝覧」絵巻のレプリカが描かれている。

日本橋(太鼓橋)~神田今川橋の様子からも江戸百万都市の中心地だったことがうかがえる。

 

三越の前身は呉服小売りの「越後屋」で江戸時代の延宝元年(1673)と言うから350年も前です。庶民にも手が届くように反物を切り売りする等画期的な商いをされたとか。

▲江戸時代の越後屋

 

二回目三回目の社員達との歩きでは、一回目の一人歩きでほんの少し知識を得ているので説明役を買った。

 

三越横の江戸桜通りから日本銀行本店に向かう。

国の重要文化財に指定されている重厚感あふれる立派な建物だ。

二回目に歩いた4月3日は桜満開の時期だったが、桜に雨はつきもので桜流しであった。

所用で通った3月28日夕方の桜は7分咲き程度だったがやはり美しかった。

 

コレド室町の裏側に千年以上も鎮座している「福徳神社」にお参り。

徳川家康も数度も参詣した。

一帯のビル化や再開発などで、長い間ビルの屋上にあったが10年位前にやっと降りてきた。

 

昭和通り地下横断道を渡り数十歩で宝田恵比寿神社に着く。

毎年10月19日、20に催される「べったら市」は300店以上の屋台や露天が並んですごく賑わう。

 

江戸中期の頃から、神社の門前で10月20日の恵比須講(商家で恵比寿を祀り、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするため、前日の19日に市が立ち、魚や野菜、神棚などが売られるようになったのが起源だそうです。

ところでどうしてべったらと言うの?  ・・・

若い男たちが縄で縛った麹付きの大根を振り回し、娘たちの着物の袖をめがけて

「べったりつくぞう~ べったりつくぞう~」

とはやし立てたことから「べったら漬け」と呼ばれるようになったとか

第十五代将軍徳川慶喜もべったら漬けを好んで食べたようです・・
 

数分歩くと、「椙森神社(すぎもり)」がある。

湯島天神、谷中天王寺と江戸三富の一つだ。

富塚があるので宝くじ買って祈願しましたが・・・結果は残念~

 

小伝馬町に向かう。

伝馬とは幕府の公用をこなすために人や荷物を馬に乗せて、次の宿駅や目的地まで運んでいく馬の事です。

より多くの馬を準備している方を大伝馬町、少ない方を小伝馬町。

小伝馬町の隣に大伝馬町がある。

小伝馬町から歩く事10分くらいに馬喰町(ばくろ)があるが、ここは馬の売り買いや仲介、馬の管理や病気を治療するところで、その仕事をする人(馬喰/ばくろう)たちが住んでいた。

地名からこの場所一帯がどんな場所だったか想像するだけで面白い。

 

小伝馬町は「伝馬町牢屋敷」あった所です。

交差点裏の十思(じっし)公園に「吉田松陰終焉の地」碑や牢屋敷で使われていた石が残されている。

幕末動乱の中「安政の大獄」で投獄された吉田松陰は、ここで処刑された。

僅か29歳の時。

江戸の町に時刻を知らせる「石町(こくちょう)時の鐘」の合図で処刑は行われたが、意図的に鐘を突く時刻を遅らせたらしく「情けの鐘」と呼ばれたとか・・

鐘つき人の悲しみと辛さが伝わって来そうです。

大老井伊直弼による激しい弾圧がのちの「桜田門外の変」につながって行く、まさに徳川幕府が倒れる動乱の数年だ。

▲「石町時の鐘」は本石町3丁目にあったが、十思公園に移され保存されている・・・

 

街道から右に少し外れるが、10分足らずで人形町だ。

ここは日本橋の一角で、江戸時代に歌舞伎や人形浄瑠璃などの見世物小屋が数件あり、一座や人形遣いが多く住み、人形を作る家も多かったことから俗名として人形町と呼ばれるようになったとか。

人形町という町名になったのは昭和になってから。

今は芝居などの場所は無いが(近くの浜町には歌舞伎の明治座がある)、粋な町を肌で感じる。

通りには二基のからくり時計がある。

11時から19時まで1時間おきに動き出す。

つい先日15時前に通った時、一基は道路工事で一時撤去されてるが一基はタイミングよく15時で動き出した。

▼写真見比べてください。

 

4月3日の社員との雨模様の寒い街道歩きは身体も冷えていそうだったので、

甘酒横丁とうふ屋 双葉でみんなに甘酒をふるまった。

冷えた体に甘酒がしみわたった様だ。

甘酒横丁の由来は、横丁入り口の「尾張屋」という店が明治の昔、甘酒を始めたらしく、以来ここの小道を甘酒横丁と言うようになったと。

 

江戸時代中期・宝暦10年(1760)創業の老舗鶏料理店たまひでは親子丼を考案した店だ。

初めて食べたのは40年くらい前・・

その後も何度か行っているが昼時は長蛇の列が出来る。

つい先日通った時、ビルへの建て替え中だった。2025年春の竣工予定とか・・

みんな待ち遠しいだろう! 

 

「快生軒」の隣でたまひで親子丼のテイクアウトをしていた。

5~6席のイートイン席もあったので入って食べたやはり美味い!!

谷崎潤一郎誕生の地のプレートがビルの壁に貼ってある。

彼はここ人形町で生まれたのか・・

たまひでの親子丼を始終取り寄せて食べていた様だ。

彼の随筆「ふるさと」にたまひでが登場する様なの本を探してみよう。

 

大正8年創業の「喫茶去 快生軒」が地下鉄を上がったところにある。

さぞかし当時は超ハイカラだったろう。

赤い椅子やステンドガラスなどレトロ感いっぱいの雰囲気で、少し酸味のブレントコーヒーとトーストを頂いた。

 

8月のせともの市、10月の人形市は人形町の風物詩です。

数年前の人形市で買った人形を玄関に置いています。

とにかく、一日いても飽きが来ないと思う粋な町です。

 

大橋通り交差点の交番後に水天宮があるので参拝。

 

人形町から元の小伝馬町に引き返して馬喰町に向かった。

ここは今、日本最大級の現金問屋街になっている。

衣類・小物雑貨など現金卸販売で小売りもしてくれる。

浅草橋を渡ったところに鯛焼き屋があったので買った。

鯛焼きは、明治の終わりごろ、鯛は庶民の手の届かない魚だったようで、鯛の形に模って焼いて作ったのが始まりだと書いてあった

~なるほどねぇ~めでタイめでタイ

 

蔵前橋通りに着く。

蔵前と言う名前は、江戸幕府の米蔵があったことからつけられたそう。

当時、六十七棟もの蔵があり、約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納できたという・・すごい量だ

駒形橋に差し掛かった。

4月3日はあいかわらず傘をさしたり畳んだり。

T君は体力の限界???、が、そのまま浅草寺を目指し、雷門に到着 !!

 

雷門をくぐり、仲見世通りを進み浅草寺でお参りした。

▲昔の仲見世通り

 

年間300万人以上の参拝客で賑わうが、夜はまた違った雰囲気がある。

以前行った夜の浅草の写真もついでにあげておこう。

 

 

5月の淺草三社祭も外せないな!!!
 

みんな、リモートワーク続きで身体を動かしていないからか疲れが顔に出ていたので、千住宿までの当初予定を断念!!!

淺草止まりとなった。

3時間以上歩いていた。

計画通りにはいかないのも旅の醍醐味よという事で、旅の〆は美味しいものをと神谷バーに入った。

住所は「浅草一丁目一番一号」。

「日本橋一丁目一番一号」をスタートして「浅草一丁目一番一号」がゴールだった。

明治13年(1880年)創業の歴史あるお店だが、神谷バーと言えばデンキブラン!!!

私は、デンキブランとビールを交互に飲むカミヤ流飲み方で飲んだ。

店内は大衆食堂みたいだが大変賑わっていてその雰囲気がどこか他と違って歴史の重みを感じる。

 

3回目の歩きでは社員のお子さんの方が他の誰よりも元気だった。

浅草寺伝法院通りでランチして別れた・・・いい思い出になってくれたら嬉しい!!!

 

さてさらに遡れば、2021年10月3日の一人歩きの時は、秋晴れ、日曜日・・お祭りかと思うほど人人・・

だがコロナ緊急事態は解除されたばかり。まだちょっと怖っ!!!と

雷門も参拝もせず、神谷バーにも入らず千住宿を目指したのだった。

 

スカイツリー、うんこビルを横に言問方面に進み、

 

言問橋交差点から斜め左北千住方向に歩き数分、今戸神社に着いた。

ここは今戸焼招き猫発祥の神社の一つと言われていて境内のいたるところ大小の招き猫が置いてある。

縁結び神社でもある、この日もお参りする若い人が多かった。

また、新選組一番隊長沖田総司の終焉の場所とも言われているが、専称寺(港区)ともいわれる。亡くなったのは24歳とも25歳とも27歳ともいわれていてちょっとミステリアスだね。

近藤勇は処刑、土方歳三は戦死、沖田総司は病死。

 

淺草高校前の「山谷堀公園」で一息。

「鉄砲狐」や「福助お多福」などの今戸焼オブジェがあった。

ここを後に千住に向かうがまだここは浅草地域・・ただひたすら歩き通称山谷地域に。

日雇い労働者が多く住んでいたところです。

 

 今日の仕事はつらかった~

 あとは焼酎をあおるだけ~

 どうせどうせ山谷のドヤ住まい~

 ほかにやる事ありゃしねぇ

山谷ブルース(フォークの岡林信康)です・・

学生時代によく歌ったものです

 

泪橋の交差点に来た。

ここは、これから小塚原刑場に引き立てられて行く罪人とその身内の者が涙ながらの別れをしたもの悲しい場所です。

映画で見るあのシーン・・・

昔は思川(おもいがわ)が流れていて橋が架かっていた。

あしたのジョー」の舞台となった所と聞き蘇った。

学生の頃連載が始まった少年マガジンの大ヒット漫画だ。

山谷ブルース、あしたのジョー・・当時の共通する時代背景を思い出した。

 

やっと南千住駅(JR、東京メトロ、つくばエクスプレス)に到着した。

駅ロータリーに松尾芭蕉の像がある。

駅の横は「小塚原刑場」があった。

多くの罪人が処刑された。

「回向院」には吉田松陰が伝馬町牢屋敷で処刑された直後に葬られた墓所があります。

また、蘭学者杉田玄白らがここでの死刑者の解剖に立ち会い、のちに解体新書の翻訳につながって行く。

 

松尾芭蕉が、門人曾良と奥の細道に旅立った場所に向かう。

400年以上前に架けられた隅田川最初の橋・千住大橋に着いた。

 

行く春や鳥啼魚の目は泪

 

春はもう過ぎ去ろうとしている

去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目は涙にうるんでいるように見える

旅中吟の書きはじめとして、行脚の一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いでいっこうに歩みがはかどらない。

人々は道中に立ち並んで、我々の後ろ姿の見える限りはと、見送ってくれているらしい。

(解説より)

 

 

15時30分千住宿本陣跡に立つ

千住宿は、江戸の終わりの頃は2400軒位の家が立ち並び、人口は約1万人、旅籠55軒、本陣、脇本陣があり、昼夜にぎわっていた様だ。

 

9キロ弱あるつくもりが16.5キロの発見の一日だった。

草履を脱ごう。

3回目の歩きで参加した社員Y君は、さすがマラソンしているだけあって疲れも知らず千住宿まで一緒に歩いた。

北千住のセンベロ酒場で静かに杯を交わした!!

 

[余談:南千住は荒川区、北千住は足立区です]