弁慶は義経に自分の名を名乗り、義経に「お名をきかせられ候え」と迫った。義経は沈黙した。では、こちらから話すので聞け、と。

若い男が女装をして黄昏、舞い歩くのは乱の兆しである、と陰陽道にある。そして「鹿ケ谷の一件をご存じか?」と。

その事件は、後白河法皇が近臣を集め、平家覆滅の謀議をめぐらせたのが清盛にバレて、関係者は斬流に処された。

弁慶曰く「平家の全盛は過ぎ、風雲はすでに、うごきはじめているとみてよい」と。そして義経は名を名乗った。

これが二人の運命的な出会いとなった。よくある話では、弁慶が夜な夜な京の街で暴れていて、それを義経が橋の上で成敗した、そして家来になった、、というのが通説のように教わったが、実際はそんな訳はない。いや、それもそうとは言い切れないか、という感想。

 

そして物語は進んでいく・・・・。

 

紀州半島の東北端に新宮という僻地がある。都の貴族には熊野詣という信仰習慣があり、しばしば思わぬ高貴の者が来るらしい。源氏の九代目、頼朝・義経の祖父にあたる源為義、この人には40数人の子どもがいる。そしてこの地でも、山伏の大将の娘に女児をひとり産ませ、その存在を忘れていた。そのうち為義は保元の乱で敗れ殺される。その余類で10男の十郎がこの新宮に流され、この土地の人に温かく迎えられた。

なぜなら、この地に亡き父為義の娘がいるからである。この姉の禅尼が十郎を大事に育ててくれた。

 

その姉も亡くなり、この男も35歳になっていた。そして鹿ケ谷の1件を聞いて、林先生なら、「今でしょ!」と言うかもしれませんが、

彼もそう思い、居てもたってもいられなくなり、そのセリフを十朗は女に打ち明けた。女は兄に話して、兄は捨ておけぬと、部下を向かわせたが、十朗はすでに旅立っていた。

そして京に潜入した。この十朗という人物は源氏の本流ではないが、能弁があった、相手をそそのかす技があった。

そして、その相手に源三位頼政を選んだ、今年77歳の老人である。

 

清和源氏の中でも頼政の家系は、四代目満仲(まんじゆう)の長男頼光が家祖。頼朝らの家系は三男頼信を家祖としており、頼光は近畿地方、頼信は東国に勢力を増していった。しかし頼政の家系は左程の武功者はいなかった。頼政は本流ではなかったが、処世はうまく、平治の乱のときも頼朝の父に味方をするはずであったが、形勢不利と感じるや、平家について、唯一生き残った。

 

時を同じくして、老人頼政の息子仲綱が名馬を手に入れた。その噂を聞いた清盛のアホな後継者宗盛が「ぜひこちらにゆずれ」と言ってきた。周りは忠告として「ぜひ左様になされませ」とすすめたが、仲綱は聞かなかった。いよいよ宗盛は欲しくなり、「一日だけ貸せ」と。

そこに父頼政が初めて口を出し、貸すことにした。そして、宗盛は返さず、さらにその馬の名前を仲綱と名付けた。

これには仲綱も耐えられず、平家の門で死ぬ!とまで頼政に詰め寄った。

そんな時に、新宮十郎行家がたずねてきた。

 

義経を読もう!<その8>へ 続く・・・・