監査対応に、不具合に、その他諸々
こうなってくると、普段は抑えている感情まで疼き出すようで(;^_^A
部下も会社の為、上司の為、部下の為…
いろいろと感じる思いを抱えながら頑張ってくれていた部分が爆発する人がおり、一人の鬱積に耳を傾けていると、僕も僕も僕も
どんだけ不満あるんやろ
人当たりが良いだけでは、上司は務まらないけど、力で抑えるだけでは組織が成り立たない…
上司は、パソコンの前で遊んでいるわけではないよ~
と、世間の上司と呼ばれる方たちと語り合いたい一週間でした(^▽^;)
その間に、愛媛マラソンに海部川風流マラソンと、フルマラソンを連走
ハードだった二月も終わりですね(早いなぁ…)
では二月が終わる前に、愛媛旅行シリーズ完結へ
今回は、松山城よりも早くから、伊予の中心で栄えた湯築城編です。
全国に100名城と呼ばれる国指定城跡がありますが、各県から一か所は必ず選定されています。
その中で、ひとつの県から5城も選出されているのは、愛媛県を含めて3県(他は長野県・兵庫県)のみです。
さらに松山市内という、一つの市内で二か所は、他には無いと思います。
道後温泉のほど近くにありますが、お城というよりは地方の公園という感じに見えます(;^_^A
松山城では溢れるほどいた観光客が、こちらでは道後温泉に流れて、ほとんど居ません
でもここは、鎌倉時代ないし、室町時代から伊予の中心として栄えた、言わば松山城よりも古い歴史を持つお城です。
そんな伊予の中心となっていた湯築城の歴史は、河野(こうの)氏の館として成り立ったのが始まりと伝わります。
伊予の有力大名であった河野氏は、内堀、外堀を巡らし、堅固な土塁の城を築きました。
パッと見では、あまり凄さが伝わらないのが残念ですが…
内堀の土塁は、高さ約2.5m。幅12mもの規模があります。
立ち位置としては、河野氏の館ですが、その実は戦対策万全の守りの城。
土塁の規模は、国内では最大クラスになります。
さらに外堀は、堀の掘削作業で出た土を盛り上げており、最大で高さ5m∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
矢印の向こう側は、普通に公園の側を流れる川のようですが、これは外堀土塁です。
本当に、小田原城の堀切を思い起こさせる規模ですが、いろいろ寄り道した僕には、一週回る余裕は無かったので、高低差の大きい土塁箇所は見えませんでした
その強固な土塁の城を仕切るのは、面白い形の土塀。
なぜか上側が、幅が広くなっています。
理由は、土塀上にある屋根部分を支えるのに、この形状が適していたから。
なぜ屋根があるのか
それは、侵入者が容易に土塀を乗り越えることが出来ないため。
高さも僕の身長(160cm程度)くらいあり、屋根もあるので、戦国時代の平均身長などを考慮すると、敵が乗り越えることは難しかったでしょう。
戦国期に、今川家・武田家・大内家・三好家・大友家など各地の有力大名が、足利将軍家の館を真似て、居館を築いたのと同じく、伊予では河野家が防御にも徹した居館を築いたんですね。
居館をイメージしやすくするために、公園内には武家屋敷も文献を参考に建てられています。
古くは鎌倉時代に、源頼朝に味方したことで、伊予国を与えられたと伝わる河野氏。
その河野氏の居館であった湯築城は、激動の戦国時代を迎えるにあたり、内外の二重土塁を巡らした堅固な城となります。
阿波の細川氏や土佐の長宗我部氏と抗争を繰り返しながらも、秀吉による四国征伐まで滅びることなく続いたのは、この城があればこそだったかも。
四国が秀吉の支配するところになると、秀吉子飼いの福島正則が伊予へ入国します。
ここに河野氏による伊予支配は、終わりを告げました。
湯築城の規模は、南北350m。東西300mあり、中心は標高30mほどの小高い山となっており、頂上からは同じ松山市内にある100名城である松山城を眺めることが出来ます。
松山城は、関ヶ原の戦い後に、加藤嘉明が築城開始したのが始まりでした。
しかし、湯築城は鎌倉時代からの歴史があり、松山城下へ中心地が移るまでの400年に渡り、栄えた場所でした。
今は、道後温泉に人気を奪われていますが…
この城の土塁は、一見の価値がありますので、ご興味ある方は是非
やっと、愛媛マラソン、海部川風流マラソン記事に入れますが…
すぐに姫路城マラソンで遊んでくるので、また記事が滞ります(笑)