さて、スタートした阿南市の史跡巡り。。。
まずは、彼女の折り畳み式自転車を積んで、いつも通りに出勤(笑)
会社の目の前が、城跡なので、車は停め放題(^▽^;)
無断駐車はダメです
きちんと決められたエリアに
過去の西方山城跡記事。
西方山城跡の前から、いざ25km先の椿泊集落を目指します
でも、その前に…
途中にある桑野城跡をコンプリートしようと
走ること約35分くらい…
西方山城跡から、7kmほど南下すると、桑野城跡に至ります。
まずは全体図から。
築城年:天文年間(1532~1555年) ※別名:栗栖城
城主:東條(甲斐守)信綱
城跡形態:平山城
【最寄駅:JR桑野駅】
徳島県では、どこでもある無人駅。
一応、平日の日中は改札に駅員さんが居ることもあるみたいです。
桑野駅から南東へ約600m地点にある萬福寺が桑野城跡(栗栖城跡)だと伝わります。
境内に入り、まずは参拝。
ちなみに彼女は、お寺と神社の参拝方法の違いもイマイチ…
いろいろと教えないとダメですね
一応、こういう周囲よりも高台に築かれていた痕跡があるのが、城跡っぽい。
【桑野城とその歴史】
城主である東條甲斐守は、元は甲斐武田家の出自だそうです。
脇城 記事でもご紹介しましたが、三好長慶が畿内を抑えている時に、武田信玄との交流があったようで、甲斐武田家から阿波へと移り住んだ武将が居るようです。
桑野城主である東條家も、元は甲斐武田家の出自になります。
元々、三好家への忠義に厚かった三好旧臣である牛岐城主 新開道善とは、ウマが合わず主柱であった三好長慶亡き後は、同じく阿波南部に領地を持つ武将同士で、いざこざが絶えなかったようです。
阿波国内での紛争が続く中、隣国土佐から長宗我部元親に侵攻され、元々が三好家への忠誠がそれほどでもなかった東條甲斐守は、あっさりと降伏します。
元親は、東條信綱の子息である関之兵衛に、自らの養女に迎えた女性を嫁がせて、身内として取り込みます。
これにより、元親は阿波侵攻の拠点を徹底抗戦する牛岐城主である新開道善に絞ります。
しかし、元親に寝返った桑野城へ三好方の矢野駿河守・篠原自遁(この人嫌いです(笑))らが、約3千の兵を率いて攻め寄せます。
しかし、元親はすでに阿波の中心にほど近くに居る一宮城主 である一宮成祐を調略しており、一宮勢に背後を突かれることを恐れた篠原自遁は、矢野駿河守に一言も告げずに撤退(最低だよね…)
主家(三好家)を裏切った東條一族と交戦中で、撤退の機を逸した矢野駿河守も撤退しますが、徳島市と小松島市の間を流れる勝浦川付近で、一宮勢 + 東條勢に追い付かれ、殿(しんがり)を務めた矢野勢がおよそ二百名ほど首級を取られたとあります。
これに怒ったのは、三好家への忠義に厚かった牛岐城主 新開道善でした。
直接、城へ兵を向けても埒が明かないと悟った、新開道善は桑野城下への焼き討ちなどを行い、桑野城の疲弊を待ちます。
そして弱体化を確認し、一気に寄せますが…
元親はすでに援軍を近隣まで進めており、攻め寄せたはずの新開道善は大敗を喫します。
結局、これがきっかけとなり、三好家への絶対的な忠義に生きた新開道善でさえも元親に降伏。
当時の三好家は、畿内の覇者である織田信長の庇護の元に居ました(いわゆる従属です)
なので、いきなり三好家を滅ぼそうとすれば、長宗我部家が信長に反抗したと取られかねません。
畿内の情勢に目を配りながら、二年の歳月を経て、本能寺の変で織田家が分裂すると、機を置かずに元親は勝瑞城 へ兵を進めます。
ここに約7年におよぶ、三好 VS 長宗我部の最後の戦いである、中富川合戦①
中富川合戦②
が勃発
兵力差は、三好勢6千 VS 長宗我部勢2万3千(およそ4倍)
これにはかつての三好家臣たちも長宗我部勢として参加していました。
結果は、三好家の惨敗に終わり、当主である十河(三好)存保は、讃岐へ撤退し、阿波三好家は名目上滅亡します。
その後、中富川合戦において戦功を認められた桑野城主である東條関之兵衛は、三好家臣であった篠原自遁が居城とした鳴門市にある木津城を与えられます。
元親は畿内情勢が不安定なうちに、四国以外にも手を伸ばすつもりだったようですが…
元親の予想に反して、畿内情勢は一気に秀吉へ移り…
信長の死後から僅か三年で、秀吉による四国征伐が敢行されます。
畿内の港という港から、四国目指して大軍が押し寄せ、さすがの元親も降伏。
その四国征伐で初めに標的とされたのが、鳴門市の木津城でした。
僅か八日間の籠城で、秀吉軍(約3万とも)に敵わないと判断した東條関之兵衛は、桑野城へ撤退。
さらに自らの城である桑野城までも見捨てて、主君である元親の本国、土佐まで逃げます。
人質を見捨て、あっさり逃げ出したと判断された東條一族は、元親の命令で死罪となり、非業の最期を遂げます。
戦国時代は、勝てば正義。
負ければ悪。
世間一般で言われる、長宗我部元親という人物は、幼少の頃から『姫若子』とあだ名されるほどに華奢で周囲から期待されない人物。
でも、その殻を脱皮して、四国の覇者にまで上り詰めた天才。
しかし、自分が絶対だと勘違いしたばかりに、もっと力ある軍団に敗れると、敗者でありながら、養女まで嫁がせた人物を皆殺しにしてしまう残酷さ…
惨いなぁ…
そして改めて、今を生きれる幸せを噛み締めるのでした。
ちなみに萬福寺の本尊は、不動明王。
こんな凄味のある不動明王は初めてかもσ(^_^;)
この地に残る凄惨な歴史を知るのかもしれないですね…
そう言えば、昨日の彼女もちょっと、こんな雰囲気の時があったなぁ(笑)
幸せに生きるために、大切にしようと。。。