が掲載されており、走ることが好きな人 + 歴史が好きな人の化学反応の凄さにワクワクが止まりません(≧▽≦)
とは言え、自分はとても参加できませんが(笑)
整備されていない山間部の道が40km程度もあり、とてもじゃないけどムリ(^▽^;)
でも事実、坂本龍馬はじめ、幕末土佐の志士たちは、整備などされていない険しい道を、檮原~大洲と駆け抜けて行ったんですよねσ(^_^;)
そんな何物にも負けない、強い志が欲しい
と、心から感じる半端者です(^▽^;)では、関東の覇者 北条家の魅力満載の小田原城記事④スタート

後北条五代100年の城①
後北条五代100年の城②
後北条五代100年の城③
まずは北条家の小田原城がどれだけ凄い規模なのか

再確認です


黒囲み部分が、江戸時代の徳川家の小田原城。
そして、北条家が初期に築いた小田原城も同じくらいのレベルでした。
それが秀吉の小田原征伐の軍勢を迎え撃つ時には、小田原の城下町まで全てを土塁で囲い、総延長は9kmに及んだと言われます。
それらを総じて、総構えと呼ばれています。

その総構えの西端にあたる『小峯御鐘ノ台大堀切』
秀吉の小田原征伐の大軍。総勢21万と言われます。
それらを食い止めるために築かれた総構えの土塁と大堀切。
実際、初期の秀吉軍は、大軍に物を言わせて力攻めに掛かった時もあったようです。
しかし、大堀切と巨大な土塁に阻まれ、数千におよぶ戦死者を出し、今に語り継がれる包囲戦に至ったようです。
では、その凄い堀切と土塁をどうぞ(≧▽≦)



赤囲み部分は、かつては障子堀になっており、侵入する外敵は、脚を取られて上手く進むことが出来ず、土塁上から鉄砲・弓矢で攻撃されたと想像すると、いくら大軍で攻めても攻略は困難だったことが容易に想像できます

しかも横矢折れと呼ばれるクランク部分も織り交ぜられており、侵入者は進むこともままならない堅固な構造であったと想像できます


最後は圧巻の土塁と大堀切

この画が超お気に入り(笑)
他にも小田原城には、回る場所が多くあるのですが、全てを回っていると時間が無いので(><;)
満喫の小田原城でした

歴史知識人である皆様には、今更不要かと思いますが…
【北条家と小田原城の歴史について】
北条家と言えば、鎌倉時代に源頼朝が鎌倉に開幕後、その妻である北条政子からの縁続きで、執権として十五代 北条高時の時代まで武家の頂点に君臨してきましたが…
長らく頂点に君臨すると、周囲を侮り、自分が特別だと勘違いしてしまうのが世の常…
結局、幕府の在り方に対して不満を抱いていた、討幕を目指す足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら朝廷派勢力に敗れて、鎌倉は炎上

約140年近く続いた鎌倉北条家は滅亡しました。
その後、室町時代に政権は再び京都へ移り、関東は荒れますが…
室町時代も後半になると再び動乱の世が訪れ、応仁の乱勃発により日本そのものが揺れます。
そして戦国時代の初期、関東に一人の英雄が現れます。

戦国時代の北条家の始まりは、この方

元は素浪人?それともそれなりの身分?
素性が明らかになるまで、いろいろ言われた、伊勢宗瑞(いせそうずい)
またの名を北条早雲。
今では、京都でそれなりの要職にあり、今川家からの要請により、駿河へ移り、今川家の先方として伊豆へ進出したのが通説になっていますね。
何にしても、この方が居なければ、後北条家の礎は無かったわけで…
伊勢宗瑞が、小田原周辺を支配していた大森氏を破り、小田原城を奪取します。
その後、二代目 北条氏綱、三代目 北条氏康と関東のライバルたちと凌ぎを削りながら、小田原城は改良と普請を重ねて巨大城郭となっていきます。
北条氏康の時代には、甲斐の武田信玄や駿河の今川義元とも争い、どちらも北条家との争いは不利と見て、三国同盟を結ぶに至ります。
その後、今川義元の死により、三国同盟は水泡に帰し、武田信玄が駿河侵攻を開始すると、北条家は今川家に味方し、武田信玄と争います。
結果、武田信玄に小田原城を包囲されるところまで、追い詰められることもありましたが…
堅固な要塞である小田原城は、武田信玄でさえ落城には追い込めずに撤退します。
同じく関東進出を目指す、上杉謙信にも攻められますが、10万もの大軍で寄せる謙信に北条所属の城は降伏しますが、小田原城だけは落城に追い込めずに撤退します。
氏康死後も、その息子である北条氏政、そして氏直と北条家の勢力は拡大していきます。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いで畿内・中部・中国東部・四国・関東北部にまで勢力を拡大してきた織田信長には抗えず、臣従を誓います。
ライバルであった武田家が信長により滅ぼされ、信長に近い立場を取っていた北条家は安泰かと思いきや…
本能寺の変で、織田家は分裂。。。
氏政は、織田家の重臣であった滝川一益と上野国の覇権を掛けて戦い、圧勝。
これにより、関東における織田勢力の排除と、再び関東の覇者に返り咲きます。
しかし、今度は信長の仇を討った羽柴秀吉が台頭し、瞬く間に旧織田勢力を滅ぼし、各地の大名にも臣従を誓わせます。
時は戦国時代。。。
絶対に天下統一を成し遂げると思われていた、信長でさえ、謀反により滅んだことを考えると、氏政は秀吉に簡単に臣従を誓うことは出来ず…
各地の大名家が臣従していく中で、北条家と東北の名門 伊達家のみが態度を明らかにしない状態となりました。
度重なる上洛命令にも屈しない、氏政・氏直親子に業を煮やした秀吉は、いよいよ小田原征伐の下知を出します。
全国各地の大名家が、小田原城攻めに参陣。
その数は、陸海合わせて21万とも言われます。
対する北条家は約5~6万。
始めは、大軍による力攻めもあったようですが…

この巨大な土塁。
土塁の高さだけで、およそ10~12m。
しかも往時は、堀切部分も障子堀となっており、堀底から土塁の頂点までは、15m以上だったと言われます。
まさに難攻不落の要塞であった小田原城。
秀吉軍は、数千の犠牲を払い撤退し、その後は完全包囲の攻城戦となりました。
氏政・氏直の頼みは、上杉謙信・武田信玄でも落城させることが出来なかった、難攻不落の小田原城。
そして、北条家と同じく秀吉への臣従を誓わない伊達政宗。
もう一つが、21万もの大軍であるため、兵糧不足に陥るだろうという目算。
しかし、伊達政宗は、家臣である片倉小十郎の説得により、秀吉に臣従で目算が崩れ…
そして、21万もの大軍でありながら、兵糧を供給し続ける秀吉軍の経済力に目算が崩れ…


トドメは、ここ。
難攻不落の小田原城を見下ろすロケーションに築かれた、石垣山城。
これにより、関白秀吉の力を思い知った氏政・氏直親子は、降伏を決断。
最後まで徹底抗戦を主張した、氏政と氏照兄弟は切腹。
氏政の息子であり、五代目当主であった氏直は高野山に蟄居させられ、関東の大勢力であった小田原北条家は滅亡しました。
後北条家の史跡を巡って、戦国時代にこれだけの規模の土塁を築き、しかも堀は障子堀であったことを考えると、北条家の築城技術もさることながら、圧倒的な経済力を手にしていたことも容易に想像できます。
今度行く機会があれば、総構え9kmを走って回る

なんてのも良いかな(笑)
次は、難攻不落の小田原城を屈させた、石垣山城へ

美味しいお店もありました(≧▽≦)