まず…
栃木県、茨城県、宮城県における豪雨災害に関して…
被災者の方々を思うと、いくら自然災害でも言葉が出ません。。。
逆境からの一日も早い復興を祈ると同時に、いつどこで起こっても不思議でないことを痛感しています。
せめて、本編記事だけでも明るく…
昨日、実家に戻り、来週の丹後路の観光ルートの打ち合わせをしてきました![]()
天橋立、経ヶ岬、伊根、夕日ヶ浦など多くの観光名所を持つ丹後半島なので、盛り上がりました![]()
正直、100kmは走ってみないと、どうなるか分からないので…
楽しいことだけ考えて行きます![]()
では、そんな楽しかった長野旅行記事の続編です![]()
ここまでの旅は、以下に![]()
第八弾は、松本城内部編です![]()
その前に…
松本城の構造について![]()
【緑囲み:天守 高さ29.4m】
【オレンジ囲み:乾小天守 高さ16.8m】
【赤囲み:辰巳附櫓 高さ14.7m】
【黄囲み:月見櫓 高さ11.1m】
【青囲み:渡櫓 高さ12m】
渡櫓(わたりやぐら)下に、大手口(入口)があります。
では、いざ参る![]()
【武者走り】
【石落とし】
下が反射して見えませんが![]()
敵が石垣をよじ登って侵入を図ってきた場合、ここから落石や射撃攻撃を行い、撃退します。
【鉄砲狭間】
松本城天守は、堀から対岸までの距離がおよそ60mあり、鉄砲の射撃が届くギリギリの距離となっています![]()
なので、敵が対岸まで迫った場合に、ここから射撃攻撃を行い、撃退します。
【矢狭間】
鉄砲狭間と異なり、矢狭間は縦に長く広がっています。
その名の通り、弓矢を射るので、そういった設計になっています![]()
鉄砲ばかりですね![]()
松本城は、先ほどの鉄砲狭間解説でも入れましたが、鉄砲戦における対策が厳重になされた、お城です![]()
松本市出身の鉄砲コレクターであった、赤羽さんご夫妻が、1988年に松本市に170点ものコレクションを寄贈し、それ以降、鉄砲蔵として、松本城天守二階に展示されています。
5年くらい前に訪れた時も、これらの鉄砲コレクションに足を止める観光客の方で混雑しており、前に進むことが出来ず(><;)
でも、今回は堪能させていただきました![]()
そして、鉄砲と言えば…
赤囲み部分が織田軍の鉄砲隊。
黄囲み部分が武田軍の騎馬隊。
織田軍の鉄砲隊は、馬防柵(ばぼうさく)を築き、落とし穴を堀り、騎馬隊の機動力を削ぎました。
且つ、防御力に劣る鉄砲隊を土塁で守り、突撃してくる武田軍を一網打尽にしたと伝わります。
この時の戦法であるのが、有名な鉄砲の三段撃ち。
鉄砲隊を三列縦列で構えて、前列から順番に、弾込め・充填・射撃を繰り返し、間断なく鉄砲射撃を実現したと言われます。
事実は、本当なのか![]()
歴史研究を行っている専門職の方の見解も分かれているようですが…
人の想像もつかないことをやってしまう織田信長公なので、事実であってほしいなぁ![]()
松本城の戦いにおける部分を強く見たところで、気分転換しましょう![]()
雨に濡れる瓦越しの月見櫓![]()
風流ですね~
【御座の間】
ここは、天守四階部分になります。
前回訪れた時には、登れなかった場所。。。
5年の歳月を経て、辿り着きました![]()
御座の間に関しては、城に攻め入られた際に、城主が最期を迎える場所だと言われています。
早い話が、落城と同時にここで城主は自害する場所(><;)
ここまで、攻め登られると…『もはやこれまで…』ということです。。。
そして、いよいよ天守最上階(六階)に到達![]()
テンションが上がったのも束の間…
こう見えるはずの景色が…
『また来なさい
』という松本城からの洗礼だと受け取りました![]()
で、周囲をいろいろと見渡して、結局テンションを上げていると…
修学旅行生と思われる団体の学生さん達が![]()
狭い場所なので、あまり長居すると混雑しそうなので、最後にこれだけ![]()
『えっ
何
ただの廊下じゃん
』
と言われそうですが、この廊下にはとっておきの秘話が。。。
元々、松本城の天守にも高欄が取り付けられる予定でした。
【高欄とは
】
高欄とは、天守から外に出て、周囲を眺めることが出来るスペースです![]()
今でいうベランダみたいなものですね![]()
参考例で、安土城模擬天守を(笑)
話を戻して、なぜ松本城天守には高欄が取り付けられなかったのか![]()
これは松本城が寒い地域にあるお城であるため、寒さ対策として、高欄 ⇒ 壁が優先されたというお話だそうですΣ(゚д゚;)
知れば納得だし、それだけ自然は厳しいってことですね。。。
なので、同じように大天守と持つ、姫路城と比較すると、こんな感じ![]()
姫路城にも高欄はありませんが、松本城と比較すると、最上階が小さく見えますよね![]()
松本城は、姫路城と比較すると、最上階が下層階に比べて大きく見えますよね![]()
これは、松本城が寒さ対策を優先した地域性が影響しています。
本当に面白いし、お城って戦いに配慮された構造なのですが、こうした日常のことにも配慮されていると思うと、何だか親近感が湧きますね~
修学旅行生に最上階を譲り、退散しながらも、美意識の高い華灯窓などに魅せられながら![]()
月見櫓が現存しているのは、松本城と岡山城だけですが、岡山城は天守から離れた場所に月見櫓が存在します。
天守と連結しているのは、松本城のみとなります![]()
徳川三代将軍となった、徳川家光は、上洛の折に善光寺参拝し、松本城にも立ち寄る予定だったそうです。
そのため、当時の信濃松本藩主であった松平直政(まつだいらなおまさ)は、辰巳櫓と月見櫓を増築し、家光をもてなす準備をしたと言われます。
しかし、実際には、家光は立ち寄らず![]()
家光殿の真意は分かりませんが…ここから見る景色は絶景だと思うので。。。
庶民の言葉として『もったいねぇ~(><;)』が、本音ですね![]()
将軍様は寄りませんでしたが、現代では庶民が楽しめる場になって良かったです![]()
最後は、太鼓門から出て完結![]()
ちなみに太鼓門は、桝形構造となっており、突破するに難しい城門でした。
松本城コレクション![]()
【松本城の歴史
】
戦国時代初期に、深志城(ふかしじょう)として築かれたのが、松本城の始まりとなります。
戦国初期、この地域を治めていたのが、小笠原一族でした。
そこへ、信濃侵略の野望に燃える、甲斐の武田信玄に、当主である小笠原長時が追われて、信濃支配の拠点となります。
その後、本能寺の変の折、動乱に乗じて、小笠原貞慶が再び復権し、名を松本と改めました。
さらに秀吉による小田原征伐後、小笠原家は下総に移封となり、変わって石川数正・康長父子が、松本城に入ります。
石川父子は、城と城下町の整備に尽力し、現代まで残る松本城の基礎を築きました。
以上、長くなりましたが、松本城レポでしたm(u_u)m
国宝の名に相応しいお城でした![]()

























