阿波城跡探訪 ~伊沢(澤)城編(No42)~ | 歴史男子(半ちゃん)が語る日常と歴史ロマン記

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歴史好き男子が好きなこと(歴史、マラソン、旅行etc)つぶやいています♪

本日は、いろんな場所を巡ってきました音譜

休みを貰うと、本当にじっとして居られない青魚タイプです(笑)


車で、往復200kmあせる

歩きで、15~16km程度あせる


また膨大な量のレポを抱えて、取材ばかりで記憶が霞みそうなダメダメ状態ですあせる


それと、神戸マラソンの抽選結果が届いていました。

残念なから、ご希望には沿えませんとのこと。。。

こればかりは、皆さん等しく抽選なので、仕方ないことです。


おかやまマラソンの手続きは済ませてきましたので、岡山県でブログ通して、仲良くさせていただいていますshojiさん とお会いできるのが、今から楽しみです(≧▽≦)


アメブロは、いろいろと問題が多いと聞いていましたが、確かに改善して欲しい点は自分もありますが、お蔭で知り合うことの無かった方々と交流して、知識を広めて、お会いすることまで出来るのは、やはりブログやっていて良かったと感じています音譜




さて、本日の記事ですが、もう当たり前になった城跡記事ですが…

こちらも当初は、旅行とマラソンネタにする予定でしたが、ブログで交流させていただいている地元の歴史を探究されている皆様からの刺激で始めた内容です。

本当に多くの先生と知り合えたことに感謝するこの頃でした音譜



では、記事に音譜


本日ご紹介するのは、伊沢(澤)城跡になります。

実はこの城跡は、先々週に取材済みでしたが、抜けている部分があり、本日追加取材に向かいましたあせる

在城地は、阿波市阿波町になります。


まずは全体図から。

赤色囲み部分が城跡になります。

ちなみに緑色囲み部分は、伊澤神社と言って、歴代城主が祀られている場所になります。

ちなみに篠原長房父子のお墓もあります。これは後ほど。

黄色囲みが次に向かう場所ですが、伊沢(澤)城跡の規模が、どれだけ大きいか一目でお分かりいただけれるかと思います。





【伊沢(澤)城解説音譜

築城年:治承三年(1179年)

築城者:伊沢家景(いさわ いえかげ)

城郭形態:平城







まずは、歴代城主が祀られている伊澤神社に参拝致しますm(u_u)m





そして、神社から少し南に下ると。。。

見えてきました音譜


奥の雑木林が、伊沢城跡になります。

手前の池が蛭田池(ひるたいけ)と呼ばれる、往時は伊沢城の東堀の役目を果たしていた池になります。





池のほとりに伊沢城跡の石碑があります音譜

最近、石碑に当たる率が高いですが、この日も多く回りましたが、石碑は少なかったです(笑)





蛭田池の番人である鴨さんにご挨拶してから、入城です音譜





中はやはり想定通りの雑木林霧

あまりお手入れされている様子はなく・・・





戻って、手前の土塁的な役割を果たしたであろう盛り土と城跡全体を撮影カメラ





最後にもう一度、石碑で。。。

伊沢城跡は、ご紹介する予定でしたが…


ネットで調べものしていると、他にも見所があるとのことΣ(゚д゚;)

しかも平日に休みが来るなんて、これはもう神が行きなさいと後押ししているとしか思えません音譜




で、本日の一城目で再訪ビックリマーク





伊沢城跡と蛭田池、向こうに見える雲を被っているのが、吉野川市のシンボルである高越山(こうつざん)

本日も薄日で暑いのかはてなマーク

雨なのかはてなマーク

迷う一日でしたねあせる





で、中は相変わらずの雑木林でしたあせる





で、ここからが新発見ビックリマーク

伊沢城跡の東堀が、鴨さんが居た蛭田池なのに対して、西堀も存在するとのこと音譜

その名を『鎌倉堀』と言います。説明は後ほど。





案内板Get音譜

掠れていますけどねあせる





東堀の蛭田池と同じ長さだけ、西側にも堀を築いたと記録が残っているそうです。

おそらく矢印のルートの現在は、道路となっている部分が往時は堀として敵の侵入を防ぐ役割であったと記されています。




【伊沢(澤)城跡とその歴史音譜

築城主である伊沢家景は、源頼朝の家臣として、各地でたびたび戦功を挙げます。

特に義経・藤原討伐では、抜群の手柄を立てたことを頼朝より評価されて、肥沃であったこの地を領土として、西国の抑えも兼ねて赴任したと伝わります。


代々、武功に優れた一族であったようで、阿波細川家と長門大内家が争っていた、応永の乱(1369年)には大内義弘を討ち取って功を挙げ、四代将軍であった足利義持から、感状・黄金を賜ったとあります。


これにより、阿波守護であった細川家からの絶大な信頼を勝ち取りますが、戦国時代に時代が移る中で、主君である細川持隆が家臣である三好義賢(よしかた)に討たれると、三好家に鞍替えします。


しかし、その三好家も長慶・義賢という絶大な権力者を失い傾き始めると、今度は一宮成助らと共に、三好長治を攻めて滅ぼします。


その後、阿波の守護所であった勝瑞城に一時、主が不在となると、どさくさに紛れて、自らが勝瑞城に入城し、阿波の実権を握ります。

しかし、三好家に忠誠を誓う麻植郡(吉野川市 ※自分の先祖もです)の武将達から、攻められて、僅か20日で勝瑞城から脱出しますが、伊沢城へ戻る途中で、追い付かれて戦死します。


時をほぼ同じくする明智光秀公の三日天下と揶揄されるのと同じく、阿波では伊沢の二十日天下と揶揄されます。


その後、勝瑞城を奪還した三好家も、長宗我部家に敗れて、阿波の政権はコロコロ変遷しますが、秀吉の四国征伐で、長宗我部元親が土佐に撤退したことで、やっと蜂須賀政権が始まります。


その中でも、伊沢家は鎌倉幕府以来の名門としての意地があったため、山岳地帯の武士たちと結束して、蜂須賀家の支配に抵抗します。


しかし、阿波九城による蜂須賀家の末端支配が確立されると観念して、蜂須賀家に仕えるようになります。


なぜ、西側の堀が鎌倉堀と呼ばれているかですが、先祖が源頼朝の家臣で評価も高かったために、この地を与えられた時に、故郷鎌倉を懐かしんで、名を残したと伝わります。


歴史ロマンいっぱいの城跡でした音譜




【おまけ】







これも本日の新情報です音譜

伊澤神社の裏手→と言っても、道路に面した側ですので、道路からの方がよく分かりますあせる


上桜城主であった三好家重臣である、篠原長房父子のお墓があります。

上桜城記事はこちらに なります。


上桜合戦の時は、伊沢一族は、主君である三好長治に味方します。


しかし、武功で地位を獲得してきた伊沢一族であるからこそ、篠原一族の無念は痛いほど分かったのかもしれません。

なので、敵として戦いながらも、その亡骸は丁重に葬ったのかも…


何だか胸がジーンとする一場面でした。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。