阿波城跡探訪 ~夷山城編(No172)~ | 歴史男子(半ちゃん)が語る日常と歴史ロマン記

歴史男子(半ちゃん)が語る日常と歴史ロマン記

歴史好き男子が好きなこと(歴史、マラソン、旅行etc)つぶやいています♪

唐突ですが…

プロ野球のセ・パそれぞれに所属するチームによる交流戦の結果にガッカリダウン


何で毎年のように、セ・リーグはあれだけ勝てないんでしょうねあせる

2位で、借金させられるほど、全体負け越すなんてΣ(゚д゚;)

確かにパ・リーグは、見ていても選手層が厚い感じはするんですけど、同じプロなのになぁ…

と、感じる毎年負け越すセ・リーグの中でも、下位に沈むドラゴンズファンでした野球


ま、下に居る方が、後は昇るだけなので、ゴチャゴチャ考えなくていいや音譜 ← 超強がり(笑)

頑張れビックリマークドラゴンズビックリマーク




と、本日の記事は残念という観点から、書いてみたいと思います。


本日も城跡記事です。

ご紹介するのは、徳島市八万町夷山にある夷山城跡です。

まずは全体図から。





【夷山城解説音譜】※別名:八万城、聖城(ひじりじょう)、楯城(たてじょう)

築城年:天文二十一年(1552年)

築城者:細川真之

城郭形態:平山城



なぜ残念なのかと言いますと…

場所が徳島市内の住宅街に囲まれた一画になりますので、道が狭くて、且つ迷路ですあせる

自分は足という最大の武器があるので、丸腰で突入です(笑)


それでも迷って、1kmくらい余分に走るハメにあせる







目印は、圓福寺(えんぷくじ)と言う、お寺を目安にすると良いかも。。。


周辺をキョロキョロサーチ







圓福寺から、西に100mほど歩くと夷山城址の石碑があります。

凄く分かりづらいし、狭い道でも住宅街なので、車がひっきり無しに通りますあせる


挙句、近くに学校もあるので、部活帰りの中学生からも『何しているんですかはてなマーク』視線がσ(^_^;)





で、一見すると民家に繋がっていそうな細い路地を10秒登ると…







今では、公園が広がっています。





公園から北向きには、徳島市のシンボル眉山が見えます音譜







公園を登ったルートと反対側に下ると、そこには圓福寺の墓地が広がっています。

その中にも釈迦庵跡という、史跡ポイントが音譜


ちなみにここには、一宮城主 であった、一宮成助のお墓もあるそうですが…

今回は発見出来ず(><;)




【夷山城とその歴史音譜

夷山城は、徳島市南部に位置する八万町のほぼ中央にあります。


南北朝時代から、城として機能していたようで、南北朝時代は八万城(はちまんじょう)と呼ばれていました。

時代は戦国に移り、三好家が支配する時代には、元主君であった細川家筋である、細川真之が軍門に降り、築城しました。


その後、弘治年間(1555~1558年)には篠原佐吉兵衛が、城主となりますが、永禄五年(1562年)に当時の阿波国主であった三好義賢(よしかた)と共に、大坂の堺へ武器の買い出しに向かい、途中で反三好家を掲げる畠山高政軍と戦になり、義賢ともども討ち死にします。


その後、その嫡子であった篠原右京が城主となりますが、まだ幼かったため、後見役として、叔父であった篠原長房が養育します。

しかし、1573年に三好家への忠義に厚かった篠原長房が、主君である三好長治に上桜城合戦 に敗れて、自害して果てます。


再び、後ろ盾を失くした篠原右京でしたが、長房と盟友であった庄野兼時が保護する形で、夷山城に戻ります。


忠義に厚かった篠原長房を謀反人として成敗した、三好長治に諸将が愛想を尽かし、長治は細川真之・一宮成助らの軍勢に攻められて滅びます。


その後、三好家当主として、讃岐から入ってきた十河存保(まさやす)が、一宮成助の居城である一宮城を攻めたため、長宗我部元親の軍勢が阿波に援軍として侵入してきます。


この時、篠原右京の後見役であった庄野兼時は、一宮成助に味方していたため、右京は夷山城主として長宗我部元親から認められて、亡き父の後を継ぐ形になります。


天正年間になると、畿内の覇者である織田信長軍が、四国平定を目指して、侵入してきます。


この時、織田軍の先鋒として、三好家家臣であった三好康長が一宮城・夷山城を包囲します。

圧倒的な織田軍の戦力に、両城とも戦わずに降伏します。


しかし、僅か一か月後に、本能寺の変により、織田家総帥であった信長が倒れます。


元親は、好機到来とばかりに再び、織田家に奪われた一宮城・夷山城を奪還します。


その後、戦わずに降伏した一宮成助ら、一宮一族は、宴と称して、夷山城へ召し出されて、惨殺されます。


裏切り者を夷山城において、見せしめに成敗した元親でしたが、天下を目指す秀吉軍に再び攻められて、土佐へ撤退を余儀なくされます。


この時、城主であった庄野兼時も、元親に従い、土佐へ移りそのまま帰農したと伝わります。

これには元々、土佐の人間でないため、元親が暇を出した説もあるので、巻き込まれる人間は堪ったものじゃありませんねあせる




戦とは、いつの時代も無情です…

大きな代償だけが残ります…


遺構はあまり残っていませんが、徳島市中心部でも、こういった歴史を感じる場所が残ることを感じた城跡でした。


皆さんも、是非お散歩の途中などで、散策してみて如何でしょうか音譜