年に一度のお楽しみ![]()
そして、海部川風流マラソンだけは、毎年参加しているので、これだけは何とか出場したい![]()
しかし、いよいよ残りの猶予は、三日間…
明智光秀の三日天下のように、三日後に倒れないようにしたいなぁ![]()
さて、本日は、昨日の続編ですが、昨日とタイトルが異なります。
今回は城跡巡りなので、ご了承くださいσ(^_^;)
まずは場所ですが、黄色囲み部分が平島公方館跡になります。
オレンジ囲み部分が昨日、記事にした歴代平島公方の菩提寺である西光寺になります。
西光寺で初代平島公方の足利義冬公、室町幕府将軍である第十代・第十四代将軍である、足利義稙公、足利義栄公の墓所にお参りしました。
西光寺から約1kmほど北西へ向かうと、阿波公方民族資料館に至ります。
本日は、祭日と言うこともあり、休館日とのこと![]()
少し残念でしたが、また土曜日にでも行ってきます![]()
資料館の前には、阿波公方縁の地がご紹介されています。
資料館内には、最後の阿波公方である足利義根の句碑が立っています。
平島公方は、こちらに移住してきてから、初めは中央政権への復権も目指していたため、戦う姿勢を崩していませんでした![]()
しかし、子々孫々へ受け継がれていく流れの中で、中央政権とは一線を画した文学を愛でる方向性に転換していきます。
その代表例が昨日の記事で、記載しました儒学者『高橋赤水』になります。
戦から遠ざかり、学問や詩吟を嗜むことを楽しむ日常へ移行していったと考えられます。
なので、平島公方5代目に当たる義景公は、足利の名籍を捨て、名乗りを平島と変えています。
自分はこの地で生きていくんだ![]()
そう心に決めたのだと自分は考えています![]()
人間の本当の幸せをこの地でやっと手に入れ、見つけたのだと思われます。
資料館のすぐ側に、現在でも平島館跡が残されています。
ただ、遺構と呼べるものは少なく、石碑や関連の場所を合わせて巡らないと、イマイチ楽しめないかもしれませんね![]()
【平島公方館跡とは
ちょこっと解説
】
築城年:1534年 ※別名:平島砦
城主:足利義冬
城跡形態:平城
平島館は、那賀川下流域からおおよそ4kmほど上流の丘陵地にあります。
平島の地に根付いてからも、しばらくの間は、中央政権への復権を目指していましたが、5代足利義景公はすでに中央政権への野望を捨てており、この地で平穏に生きていくことを心に決めたと思われます。
初代である足利義冬公は、保護されていた細川家から、約16ヶ村で3,000貫もの領地を与えられていました。
それは、三好家を滅亡させた長宗我部元親公が入国してからも同じでした。
三好家の領土は悉く、没収されて、三好家に関わった武将の多くが追放、謀殺されてしまいますが、平島公方家だけは、細川家・三好家が与えていた頃と同じだけの領土が与えられていました。
ただ、蜂須賀家入国が蜂須賀家の客分となり、100石程度まで領土も削られてしまいます。
それでも、蜂須賀家政権の元で、何とか脈々と歴史を築いてきましたが、第九代である足利義根の時代に、蜂須賀家の処遇に立腹して、約250年息づいた阿波の地を出て、再び京都へ戻ってしまいます。
ここに阿波における平島公方家は終焉を迎えます。
平島公方家が退去後は、蜂須賀家により、館跡含めて周囲は解体されてしまいます![]()
ちなみに山門は、先日の小松島巡りで、ご紹介した地蔵寺にそのまま移築されており、現存しています。
小松島記事はこちらになります→http://ameblo.jp/4451777/entry-11984472769.html
ちなみに初代平島公方である、足利義冬の正室は当時の中国地方で絶大な権力を誇っていた大内義隆の息女であり、各地の守護大名や戦国大名との結びつきは、かなり強かったものと思われます。
本日の締めですが、都落ちした後も多くの家臣・従者・学者などが付き従ってきたことに、凄く感動を覚えました。
第八代平島公方である、義宣公は特に文学への思い入れが強く、多くの儒学者を京都より招き、阿波に一大文学の隆盛を築きました。
しかも、細川家・三好家など一時は、足利家を邪険に扱った阿波の大名達が、こぞって所領を安堵したこと、四国を平定した長宗我部元親公を持ってしても、平島公方の領土には一切、手を出さずにそのまま所領を安堵したことが、やはり大名とは言え、重んじるべき家柄であったと言うことでしょうね![]()
自分の地元で、将軍家に従い下向してきて、この地で果てて行った人々に思い入れが強くなる場所でした![]()
さて、明日は、阿南巡りに戻って、近隣のお寺などを巡った模様をご紹介します![]()









