前回、竹中半兵衛殿が稲葉山城を落城させたところまで、書きましたので、
今回は秀吉の軍師となるまでを。
あくまで僕の個人的見解ですので、良ければお付き合いくださいませ。
稲葉山城の主となった竹中半兵衛がまず行ったのは、城下の治安安定化でした。
隣国尾張の信長は隙あれば、美濃を狙っていた為、治安安定は急務でした。
これには義父である安藤伊賀守が配下武将に指示して、治安維持に走らせたことが正しいようです。
安藤は義息が美濃国守護に納まって、政治を仕切ってくれれば、自身の安泰も図れる為、尽力したようです。
ただ、城下がある程度落ち着いてくると、半兵衛は誰にも予想できない発言をします。
それは…
『城を龍興様にお返しする』という突拍子もない内容でした。
政治を疎かにし、人心を顧みない国主では、簡単に国を失います。
ただし私が城主では、斉藤家に長年従ってきた者が認めないでしょう。
殿はそれを身を持って体現されたのですから、これからは政治を疎かにしないように。
との言葉を残し、自身は20代前半でまさかの隠居。
家督を弟(久作重矩)に譲り、近江との境の庵に引き篭もってしまいます。
半兵衛の策に乗って、乗っ取りに協力した安藤守就は、斉藤龍興から疎まれた為、
織田信長が再度、美濃攻めに入った時には、稲葉一鉄・氏家卜全とともに織田家に寝返ります。
結果、あれだけ外攻に強かった、稲葉山城は裏切りによる内部崩壊から落城します。
斉藤龍興は越前へ敗走。
ここに足掛け10年に及んだ、信長の稲葉山城攻略は達成されます。
信長は入城後、すぐに城下・城名を『岐阜』と改め、『天下布武』の朱印を用いて
天下取りの足掛かりとしました。
この間にも、京を追われていた足利義昭(将軍の弟)と岐阜で謁見し、上洛を約束します。
さらに秀吉に竹中半兵衛を味方につけるよう調略するように命じます。
半兵衛が斉藤家臣であった頃に、戦で痛い目に合されたことが、
味方にすれば、使える人材であると見ていたのでしょう。
この後、信長は北近江の浅井長政へ、妹 お市を嫁がせて盟約を結びますが、浅井家内にも火種が燻っていました。
長政は信長の天下布武に賛同し、長政の父 久政は昔から恩義がある朝倉家への信義を一番に考えていました。
そこに事件が発生します。
事の発端は、信長が上洛後に足利義昭の名で、各地の大名に上洛命令を発したことに
朝倉家が断固反対の態度を示したため、朝倉征伐を開始したことが始まりでした。
これに長政は態度を決めかね…
久政は朝倉家への信義を通すように迫り…
結局、長政は義兄と袂を分かち、信長軍の背後に迫ります。
後の世に『金ヶ崎の撤退』と言われる信長の大敗となりました。
このような状況下でも、半兵衛はまだ浅井領近辺の庵で隠居生活しており、
その半兵衛を秀吉は命がけで、織田家に味方するように説き伏せに通い続けていました。
よく三顧の礼と言われますが、実際にはもっと多く7~8回程度通って、
『戦に勝たねば、戦が無くならぬ。ワシは戦を無くして、百姓が腹いっぱい飯食える世の中にしたいのじゃ。それには知恵が必要じゃが、ワシには無い。助けてくだされ!』
と、自分に無いものを補ってくれと、親身になって説得しました。
半兵衛は秀吉の人柄に惚れ『この人の元でなら…』と秀吉付きの与力として、織田家家臣となりす。
木下藤吉郎秀吉の軍師としての第一歩が始まりました。
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