家父長制と優生思想は繋がっている。
その枝先には極左や極右の思想がぶら下がってるんだろうし、家父長制が肌にまで染み込んで当たり前になっている状態の私たちにはツイフェミみたいなやからは格好の攻撃対象だ。

彼女は「私は口喧嘩で負けたことがない」と自慢気に語っていたが、負けたことがないんじゃなくて、相手の反論を理解するだけの知識や想像力がなかっただけだろう。

賢く教養に溢れた人ほど黙ってしまうのはそれだけ発言を語解釈される怖さを知ってるからだと思う。
間違いのないように丁寧に語ると何万文字にもなる。

それを見た、誤解釈の怖さが分かっていない人がサラリと「賢い人は馬鹿な人にも分かりやすく端的に説明できるものだ」などと言ってその何万文字もの丁寧な言葉を無下に扱う。

こんなすれ違いは世の常なのだろうけど、眺めてるうちに虚しさで体に力が入らなくなる。




近頃“ギフテッド”という言葉を目にする機会が増えた。私はこの言葉が嫌いだ。

障害を持った人にも周りが気づいていないすごい才能がある、例えばスゴイ絵を描いたり、計算能力がとても高いとか、これが神様からのギフト(贈り物)、それを授かった人達がギフテッド。というわけだ。

これを語る人達に悪気はないのだろうから頭ごなしに否定はしないけれど、まさしくこれは優生思想だと思う。

私にはどうも「才能のない障害者には価値がない」と言ってるように見えるのだ。

多かれ少なかれ人はダメな部分があるし、致命的な不具もあるだろう。
社会的弱者になってしまうような障害を抱える人もいる。

それらの人にわかりやすい線引きを設けて極端に擁護したり、極端に不当な扱いをするというのはやはり自分の中に染み付いた優生思想の賜物なのだろう。

ましてや善行のようにギフテッドを讃える人を見てしまうと、壊れたオモチャがけたたましく笑い続けてるような、ホラー映画のひと場面を見てるようなそら恐ろしい気持ちになる。

優生法の廃止は1996年である。
この年に生まれた子どもは今26歳。
青春真っ只中の若人だ。

そう、優生法はついこないだなくなったばかりなのだ。

優生思想は法の整備までさせるほど社会やその社会で暮らす人々に根付いてしまっていたのだからほんの二十数年でその思想を取り払うなんて至難の業だ。

それでも今ある考え、芽生える感情が何に起因するのか分析していくことには意味がある。

そうすれば次の世代では優生思想が少しだけ薄まる。
さらに次の世代ではもう少し薄まる。
これを次の世代、次の世代と続けていけばいつか優生思想なんてのは過去の遺物になるだろう。

そういえばどっかの民族には何か決め事をする時には七世代先まで考えて決めろなんて諺があると聞いたな。

こういう考え方もそれに近いんだろうか。

綺麗事で生きられるなら世の中を渡るのは楽なもんだ。でもそうじゃない。

それでも世界には素晴らしいものがたくさんあるし、それを否定できない。
だから喘いでもがいて肩で息をしながらでも前に進もうとする人達がいるのだと思う。