私のブログを読む人は奇特な方々ばかりですから、一番気兼ねなく色々を書ける。


この数年を思い返して、苦笑いで真夜中の天井が濁る。


濁っていく世界の話を少し。


まぁ。色々と。私は社会不適合なのだという明確な理由を知ったのがこの2年程。


個人的には今までの苦しみの理由が知れたのでホッとした感じが強かった。


でも同時に感じたのは「私の“本気”が伝わらなくなるのでは」という不安。

社会不適合者という枠の中の人として捉えられては言葉が真っ直ぐに伝わらない気がしてしまう。


だから少し発言に気を使うようになってしまった(ダサい)。


私は幸せに生きている。

もう少しだけ妥協すりゃ順風満帆、他人から見ても素敵な人生に見えるような生き方ができると思う。


安部公房の最後の作品、カンガルーノートを読んだ。


珍妙な雰囲気はいつもながら、その他の作品にはないスピード、あるいは疾走感を感じた。

ベッドに寝かされた主人公がガタガタと運ばれていく様は最高にポップだった。


“死”を厳格なものにも高尚なものにも扱わず、ただ訪れて過ぎ去っていく唐突さを描いているのが素敵だった。


私の人生もこれくらいわけの分からないものなのだと思う。


賽の河原で石を積む小鬼が老人相手にお土産を売る風景、それはまさに今の私じゃないか。

ダボダボのシャツを着て、観光バスで乗り合わせた爺さん婆さんにお駄賃をねだる、その小鬼は私にそっくりだ。



そうだ、私は小鬼なのだから、人間と同じにゃなれないのだ。


そんな風に感じたこの2年。


女に生まれたが故の虚しさ、美しさ、楽しさ、悲しさ。

私が私としてやってくことの難しさ。


しんどさに胸が抑えつけられて過呼吸になる。

死にたい死にたいと思いながら涙目で笑ってる夜。

ココにいる意味もよくわからないでぼんやりしてる。

すると目の端に淡い光が見える。

首を伸ばしてまじまじと見つめる。

そこには世界がある。

私が生きていたくないと感じた世界とは別の、もっと大きくて豊かな世界。

それが見えると、心が温かくなる。

「素晴らしき世界だ」などと感じる。




僕が生まれてから今まで、世界中で殺し合いをしてる。

止まらない。止められない。

でも僕は君を愛してる、君達を愛してる。

まずはそこから始めよう。


社会に不具合をおこしていてもポップに生きていこう。


この素晴らしき世界で。