先日Eテレで映画監督 羽仁進さんの番組がやってました。

私は知らない人でしたが、映画好きの方々ならすぐわかるお爺さんだと思います。

御歳91歳の羽仁進さんは、え?そんなお年なんですか?というくらいハキハキと喋っていて、言葉に力があってすごいなぁと思いました。

その羽仁進さんは20代の時に第二次世界大戦があり、何基も飛ぶ米軍機に向かってたった一機で突っ込んでいき落ちていった日本軍機を見て「自分も徴兵されてああやって死ぬのか、それならいっそ」と思って家の屋根から飛び降ります。
でも下のカボチャ畑がクッションになり死にませんでした。
それの少し後、終戦になり映像を撮るようになったそうです。

この死ななかった時も、飛び降りた時も“死”は怖くなかったとおっしゃってました。

生きることの反対は死じゃない。全然違いますよ、死は生の可愛い弟なんです。

「死は生の可愛い弟なんです」

テレビを見つつ、わ、面白いこと言うな、このお爺ちゃん。となりました。

“死は生の可愛い弟”

素敵な考え方だなぁと思いました。

“可愛い”ってついてるのがみそですよね。

でも番組ではその言葉の細かい真意は語られずに映像の話へと戻っていきました。

余談ですが、ほんとEテレは面白い番組つくりますよね。幼児が見る番組も大人が見て面白いですからね。まだまだ何かやろうとしてる気概を感じるので頑張って欲しいです。

でまぁ、その“死は生の可愛い弟”という言葉をモヤモヤ考えてるわけですが、思春期の時に抱くような死への羨望や不穏というのは確かに兄弟だと思えば少しわかりやすくなるのかもしれないと思いました。
(兄弟がいない方は全然わからないか。)

走って先へ先へと向かう時に後ろをついてくる弟。
足手まといで危なっかしくて生意気な弟。
振り返って姿が見えないと少し心配になる弟。
憎たらしいのに嫌いになりきれない弟。
離れることはあってもどこかで繋がりが残る弟。
他人よりも他人で、家族よりも家族な弟。


生きているのがツラくてどうしようもなくなった時にそっと手助けしてくれる弟。











まだまだ青かった時に不思議だなと思ってました。どうしてみんなこんなにたくさん、自分の気持ちに嘘をついているんだろうか、と。

それで生活していく中でわかったのはあっちの世界とこっちの世界があることでした。

あっちの世界は嘘をついていることに気がつかない人や気が付けない人、嘘を信じ込んでる人、嘘を嘘じゃないと思う人、嘘は嘘だと割り切る人などがいます。

こっちの世界は嘘をつけない人がいます。

あっちとこっちの間の線を越えて、何度もあっちの世界でやっていこうとチャレンジしましたが、結果は散々なものでした。

私は私の心の中にあるものが掘り当てちゃいけない有毒ガスだったのかもしれないとか、ダイナマイトの束なんじゃないかとか、醜悪で土臭い虫なのかなとか、色々考えました。

あっちの世界の人達はちゃんと社会で生きてる、他人に説明できる幸せを持ってる、世間と自分の差を上手いことごまかせてる、なのに自分は…という気持ちで、頭の中で耳鳴りがしてそれに何重にもリフレインがかかる、あぁ、頭が痛い。

こんなんじゃダメだ、プレゼントを貰ったらもっと喜んだふりをしなくちゃ。
みんなが幸せだと言うんだから自分も幸せだと言わなくちゃ。
世間ではこれが正しいんだから正しいと思わなくちゃ。

ダメだ、全然できてないじゃないか、あっちの世界の人はこんなに私のために優しくしてくれてるのに、私は何もできてないじゃないか、私は、もっと、応えなくちゃ、あっちの世界の人達と同じように、笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、を、あっちの世界の人と、一緒に、同じタイミングで、やらなくちゃ、よく見て、きっと、あの人の台詞が、もう一息で終わるから、そしたら、目を細めて、口角をあげて、大きすぎず小さすぎない声量で、気持ち大袈裟なモーションで、笑わなくちゃ、あぁ、上手くできなかった、怪訝な顔をされた、くそ、次はないぞ、ちゃんとやらなきゃ、どうしてできないんだ、こんなに周りは良くしてくれるのに、苦しい、どうしてだ、あぁ、苦しい、苦しいのは、自分が悪いからだ、自分が上手くやれば、苦しくないのに、自分が悪いんだ、自分が悪い、自分が悪いんだ、自分が悪い、自分が悪い、自分が悪い、自分が悪い



ふと横を見ると、弟が目を薄く開いてこちらを見ている。
笑ってるようにも、眠りかけてるようにも見える。

なんだか愛おしくなって頭を撫でて見る。

弟は動かない。

じっと弟を見つめる。

じっと。

耳鳴りと換気扇の音の境目がなくなる。

抱き締めたら終わりだ。

可愛い弟よ、慰めに来てくれたんだね、ありがとう、そろそろ起きるよ。









何か1つの出来事が引き金になったわけじゃなくて、たぶんこれは生まれた時からの性質で、私はあっちの世界ではいまいち上手くやれない奴だったみたいです。

少し青さが抜けてきた頃にこっちの世界にもたくさんの人達がいて、楽しくやっていることがわかりました。だから楽しく生活してます。

世界に線引きなんかしたくない。
でも線があることを見て見ぬふりはできない。

もう少し賢くなって言葉を知ったら上手くこっちの世界のことをあっちの世界の人に(その逆も)説明できると思う。

どっちかの世界が正しいわけでも、どっちかの世界が素晴らしいわけでもなくて、世界にはそんな線がある。たぶん私が生まれるずっとずっと前からあったのだと思います。

だからなるべく自分の気持ちに嘘はつかないで、怒って笑って喜んで楽しんで悲しんでってのをすることにしてます。

生きることについての結論はまだまだ出ませんが“可愛い弟”がいることで曖昧な“生”というものの大切さを再確認したりするのだと思いました。



“死は生の可愛い弟”


何度も考えたくなる言葉ですね。素敵。

もう少し賢くなったら、また違う受け止め方をすると思うので備忘録といった感じで書いておきます。

“死は生の可愛い弟”