微熱少年 鈴木茂  1975



 はっぴいえんどのギタリスト鈴木茂は、細野晴臣がはっぴいえんど結成時に、当時天才少年と評判のギターボーイだった。
 鈴木のキャリアの始まりはその二年前の1968年に結成されたバンド「スカイ」からだった。
 そのバンドはgに鈴木茂、dsに林立夫、bに小原礼と言う後のシティポップの重要なサイドメンらが集まっていて、当時の風街界隈では激しい争奪戦が繰り広げられていた。
 鈴木茂ははっぴいえんど参加時はまだ高校生だった。
 はっぴいえんどの方向性は、最初のミーティングの時の♫12月の雨の日 の茂のあのOPのギターソロで既に決まっていた、と細野は述懐するが鈴木の天才振りが端的に判るエピソードではないか。
 ウエストコースト寄りのザ・バンドやバッファロースプリングフィールドらに影響された大瀧や細野らが繰り出す楽曲に鈴木のギターはヘヴィに響き、明るさと暗さの中性ロックの音像を形成した。
 又、細野の提案により楽曲の録音は、作曲した人間が責任を持ってプロデュースする…と言うザ・ビートルズのやり方を踏襲し、作詞は基本的に松本隆に委ねられた。
 この様な個性的なバンドは我が国の当時の音楽状況からは考えられず、繰り出すレコードは流石に流行らなかったが、それでも洋楽ポップス志向の一部のコアなファンからは熱狂的にはっぴいえんどは支持された。
 後の俳優佐野史郎や評論家の萩原健太らがそうだった。
 バンドは3年もたずに解散し、鈴木は誰よりもバンド解散を惜しんだ。
 折角呼吸が合ってきたところだったし僕も数曲の楽曲を作ってレコーディングのノウハウを覚え始めたところだったし、何より一緒にやってきたのに別れ別れになるのが、寂しかったと鈴木は素直にその時の心境を語った。
 やがて鈴木と林とで相談し新しいバンドを組むに当たってやはり年上頼みという事から細野を引き入れることとなりそこで結成したのがキャラメルママであった。当初はSKY以来の小原礼をベーシストとして加える予定だったが小原はサディスティックミカバンドへの参加が決まってしまっていた、とのことだった。
 キャラメルママ〜ティンパンアレイは細野が結成した、と誤解されがちだが発起人は鈴木だった。
 数々のミュージシャンのバッキングで印象的な仕事をこなしていく中で、鈴木にソロアルバムの話が持ち掛けられる。
 しかし事前準備の段階でミスが生じてレコーディングの話は難破仕掛けていた。
 鈴木は結果的に単身渡米の形となったが、そのとき付いていた日本人女性コーディネーターの機転で信じられないメンバーが集まった。
 ベースにサンタナのダグローチ、ピアノにリトルフィートのビルペイン、そしてドラムスにはスライ&ザ・ストーンのグレッグエリコと言う豪華な布陣であった。
 こうしてL.A.発の鈴木のファーストアルバムは成功裡に録音された。
 詞は毎日、松本隆のいる東京からテレックスで届くと言う塩梅だったが、傑作は困難な状況下ほど産まれるのだろうか?
 松本の東京遊里な心象風景とも言えるコトバの数々は、風街や微熱少年と言う松本隆ならではの世界観を最も如実に示す作品として、認識され続けていくであろう。




https://youtu.be/QLEaulZfK8o

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