風になれるなら  :   伊藤銀次   1977


   1昨年10月に松任谷由実の旦那さんの松任谷正隆が初とも言える自伝を書いた。

   過去は余り振り返りたくないからこれ一回こっきりと書いてあったが自伝を2回出版する人はそうはいない(^^)

   昨年に入り四月には大滝詠一の一番弟子の伊藤銀次が自伝を出した。

   大滝さんに関する貴重なエピソードがあり楽しめた。

   大滝さんが伊藤の特性を知ってて手伝わせた仕事の話などはちょっと盛ってる?って位に神懸かってなくもないがやはり自分をいの一番に引き抜いてくれた人であり単なる声掛けだけだったら感謝と言う点には到達しなかったで有ろう。

   その先、厳しくも真面目に育ててくれた、この業界で何とか生きていけるだけの指南はしてくれたそうなると師匠と呼んでも余りあるようだ。

   伊藤は一般的な認知度は余りないが、若き日はセッションギタリストから事務所の電話番まで貪欲に仕事をこなしたようだ。

   伊藤は大阪で結成したごまのはえと言うバンドをやっていて大滝に見染められた。

   大滝に呼ばれて関東に行くか否か迷っていた時、大阪で終わるならローカルバンド止まり、

   こっちにくるなら頂点を目指すつもりで来い!と言われた。

   大滝のレコーディングのバックミュージシャンなど初期の大滝のソロ活動によく名前が出てくるが伊藤の大滝への功績は大滝と山下達郎の出会いの仲介役を担った事、又大滝に「日本の喜劇人」などの小林信彦の著作を紹介してクレイジーキャッツに目覚めさせる端緒を作ったことで有ろう。

   伊藤はその後、大滝の元を離れてバイバイセッションバンドに加入、りりぃのバックバンドとして活躍するがこのメンバーに坂本龍一やベーシストの吉田健、ドラマーの上原裕など大滝のレコーディングセッションのブッキングが後に実現する。

   それが1976年の「ナイアガラトライアングル」だった。



 1976年昭和51325 大滝詠一はコロムビアレコードに移籍第1弾のアルバム「Niagara Triangle  Vol.1」をリリースした。

   録音は彼の自宅兼スタジオである福生45スタジオを中心に行われた。

   その前年の秋に大滝は自分のラジオ番組「Go Go Niagara 」に山下達郎、伊藤銀次の2人を招き、ナイアガラレーベルの2年間の活動を振り返るという趣向の回のあとこのアルバムの企画を提案する。

 録音は1975117日に山下達郎の作品からスタート、4曲分のリズムパートを9日までに録り終える。

その後、ブラスは麻布のモウリスタジオ、吉田美奈子と山下自身のコーラスは新富町の音響ハウスでそれぞれ録音、そしてコロムビアスタジオで坂本龍一のピアノソロ即ち♫パレード のあの感動的なイントロ部を録った。


 11月下旬から12月初旬に掛けて伊藤銀次の作品を福生45スタジオで全てのトラックを録音。

 この時のバッキングメンバーが豪華絢爛。

 土屋昌巳脱退後のバイバイセッションバンドというりりィのバッキングメンバー達でギター伊藤銀次、ベース吉田健、パーカッションの斉藤ノブにキーボードの若き精鋭 坂本龍一、そこに山下達郎やそのバンドマンだったドラマーの上原裕など福生45スタジオは異様な熱気に包まれていた事であろう。

 その時の記念写真が次の画像である。



 さて、大滝自身はこれらのミキサーとして全ての録音に立ち会っていたから必然的に自分の作品はラストに持って来ざるを得なかった。

 とは申せ大滝は作家志向をこの時はぐっと沈ませて、新しく録音したのは♫Fussa Strut part.1   と♫ナイアガラ音頭  のみだった。

 録音は主に197512月に集中的に行われて大滝作品以外にも♫幸せにさよなら や♫ドリーミング・デイ

 のシングルVer.なども併せて録音された。

 アルバムB-5♫夜明け前の浜辺 は前作「NiagaraMoon」の時のオクラ入り音源で♫夜の散歩道 という仮タイトルが付いていたが、リズムトラックは前作のもので歌は新たに入れたものである。

 ♫福生ストラット パート は如何にもヘッドアレンジで細野晴臣のベース 上原"ユカリ"裕のドラム 坂本龍一のピアノ 村松邦男のギター ブラスセクションは稲垣次郎グループ バッキングヴォーカルに布谷文夫 斉藤ノブ 伊藤銀次 GH助川 の面々が参加。

 これと♫ナイアガラ音頭 は大瀧のパーカッションに上原のドラム、田中章弘のベース、坂本龍一のピアノに本條秀太郎の三味線と言う布陣だったが、後から分かったことはこの時三味線で参加した本條氏は後に大瀧の♫イエローサブマリン音頭 を唄った金沢明子の師匠筋に当たる人だと大瀧本人も後から知った人脈だったらしい。



 シングルVer.は坂本龍一がピアノからグラビネットに弾き換えたパンクな内容となっている。又、このほかの演奏としては、サントリーオールドのCMソングとして吹き込んだセッションではオープニングから坂本龍一のピアノがホンキートンク奏法で誠に印象的だ。詞も演歌の大家、吉岡治が書いて凄い取り合わせだがこのVersionは結局採用されずお蔵入りとなったが、2007年の大滝のCMスペシャルのリイシュー盤に収録された。

 一方伊藤銀次の作品としてナイアガラファンには一際印象に残る♫幸せにさよなら はアルバムB1曲目に配されているが19764月にシングル化されたがトラックはアルバムのものを活用したがオーバーダビングして音を微妙に変えたものだったが、実に別録音ではないか?と見紛うほどの出来だった。

 尚、このタイトルは実に不自然だなと思料していたら案の定、当初は「思い出にさよなら」だったらしい。しかし、偶然とは恐ろしいもので、その時洋盤で全く同じタイトルでリリースしようとしていた楽曲があり、そちらに発売を先を越されたために、タイトルの変更を余儀無くされた、と言う事であった。

 それで「幸せにさよなら」と大滝は後々の山下達郎とのラジオ対談「新春放談」で「幸せにさよならしちゃったら、売れないよー」と山下を笑わせていたが、これは存外大滝の本音だったのに違いない。

 

 ナイアガラトライアングルはコロムビア移籍第一弾のアルバムで華やかに見えるが、実は初期ナイアガラミュージシャン達の解散記念アルバムでもあった、と大滝は後年、渋谷陽一とのラジオ番組で語っていた。

 伊藤銀次は大滝と知り合った時に率いていたココナッツバンクを既に解散しており、山下達郎もシュガーベイブ解散後のソロデビュー準備期間中でもあった。

 シュガーベイブは辛うじてアルバム1枚が残ったがココナッツバンクとしてはとうとうトータルアルバムを残せなかった。

 大滝はエレックレコードが倒産してしまった時に、この3人が一緒にやっていた証が残せなかったことに気づいてしまった、とも語っていた。

 トライアングルの構想はかなり以前からあったので、ここ一番、満を侍してぶつけた企画がこのアルバムであった。

    

   その後、漸くソロアルバムをリリースするが伊藤の初のソロアルバム「Deadly Drive」に収録された筆峰1曲目♫風になれるなら   はシュガーベイブ時代に一緒だったター坊こと大貫妙子のウィンディボイスなコーラスが正に風を見事に表現していて心地いい。 


   伊藤のその後の活躍は音楽クリエーター、或いはプロデューサーとして沢田研二の楽曲を手掛けたりしたが、90年代にはウルフルズを世に送り出したことが大きな収穫だった。

   そして、お昼の定番だったCX系バラエティ「笑っていいとも」のテーマソング♫ウキウキウォッチング   の作曲者と言う、これだけでも立派な功績だと思う。


   伊藤のアルバムを全て聴いたわけではないけれど彼には普遍的なポップスを書けるセンスはある。

   「ナイアガラトライアングル」でシングルカットされた♫幸せにさよなら   や今日紹介する♫風になれるなら   も然り。

   又、山下達郎のシュガーベイブに一時的に参加していた時代の楽曲♫Down Town   や♫SHOW   と言った楽曲のサビの部分の作曲と作詞者としてはとてもいい線を行っていた。

   最終的には山下から三下り半を突きつけられてしまうが、ソロアルバムを聴いた限りではキラっと光る楽曲はある。


   大滝は伊藤のそう言ったポップス作家としての才能を見抜いていたのだと思う。


   シティポップ黎明期の頃の一曲、♫風になれるなら   を聴いてDown Townへ繰り出そう!