☆喫茶店で松本隆さんから聞いたこと:山下賢二

 山下賢二(やました・けんじ)
1972年京都生まれ。21歳の頃、友達と写真雑誌「ハイキーン」を創刊。その後、出版社の雑誌編集部勤務、古本屋店長、新刊書店勤務などを経て、2004年に「ガケ書房」をオープン。外壁にミニ・クーペが突っ込む目立つ外観と、「ロマンティックとユーモアが同居する」品ぞろえで全国のファンに愛された。2015年4月1日、「ガケ書房」を移転・改名し「ホホホ座」をオープン。『わたしがカフェをはじめた日。』(小学館)を発売。 




 私が初めて松本隆の名を意識したのは1985年、はっぴぃえんど再結成にあたり、はっぴいえんど宣言と題した詩を松本が記者会見で読み上げた時だった。
 今は神宮球場の横に移転してしまった代々木の方の国立競技場で10万人規模のイヴェント「ALL TOGETHER NOW」。
 当時の考え得るJ-POPのアーティストが一同に会した凄いものだったが、目玉は当時12年振りに再結成されたはっぴいえんどがこのイヴェントの為だけに登場、既に伝説化していた彼らは日の落ち掛かった国立競技場のメインステージに登場した。
 MCは吉田拓郎で一人一人、メンバーを紹介していった。
 この日のこの模様は今は、YouTubeで観覧可能である。



 それに先駆けて記者会見が開かれ松本隆が"はっぴいえんど宣言"と題した文章を読み上げた。
 その低過ぎる声のトーンは、何かしらひた隠しにしてきた恨みに満ちているかのような、世の中に対してモノ申す的な恨み辛みを静かに湛えている仄暗さを包蓄していた。
 それは70年代に陽の目を見無かった細野、大滝らの怒りの代弁とでも言おうか。
 以後はっぴいえんどは約10年周期で見直され続けて、都度それは大きなうねりとなって若い世代への影響を与え続けている。


 他方、はっぴいえんどの個々のメンバー達もそれぞれのアニバーサリーを祝う様々な企画を行ってきた。
 それに相俟って、海外の音楽ファン発信によるシティポップブームが更にその存在感を鉄壁なものにしていった。
 松本ははっぴいえんど解散後いち早く歌謡曲やニューミュージックの作詞に着手。
 筒美京平とのコラボでヒットメイカーとしての地位を築いていた。
 松本隆は東京青山の生まれで、その生家は現在の青山骨董通り上にあった。
 東京五輪1964に向けて急ピッチで造成された首都高速や、骨董通りと言った新道は街の様子を一変させた。
 松本の一家はそうした強制立ち退きの波にさらわれる様にそこから移住させられて、松本の心の中にも大きな穴が開いた。
 そんな郷愁を都心の中に抱きながら松本は風街を想像した。
 青山と渋谷、麻布を三角形で結びそのなかを風街と仮想したのだ。
 以来、松本の詞には風や街や雨といった心象風景が綴られた。
 そこに東京五輪前には都民の貴重な足だった路面電車がのんびりと走る風景はなんとも言えないその風街に、豊かな彩りを縁取ったのだった。
 松本や細野は東京出身者であるがゆえに1964年以前の長閑で、季節の風を都心でも感じることが出来たと言い、あの1964東京五輪に向けて大きく変容してしまった東京を嘆き、その反省もなしに東京五輪2020が行われていいのか?と憤りを隠していない。
 細野は白金の自身の家を守っているが松本は思い切って東京から関西に移住している。
 神戸から京都へ。
 この本は、詞人から詩人になっている松本の現代(いま)を端的に表現した優れた本である。
 芥川龍之介が生前、友人の菊池寛が発刊した文藝春秋の巻頭に連載された「侏儒の言葉」に似た機知的でアフォリズムに貫かれている。
 それは詩人松本隆が生きてきた含蓄であり、それが昇華されて美的ですらある。



SNSについて…よくアメリカ人の心理学者とかが、食べ物の写真ばっかりアップしてる人は想像力がないとか言い出すでしょ?…でも僕はそう言うの信じないから。…iPhoneはインフラだと思う。
よくみんなはTwitterとかでフォロワーが減るのを気にしたりするけど、僕はあんまり気にならない。…別に要らないフォロワーだよね。減ったほうが純粋になるからいいなと思う。そうやってすべてが、自然に淘汰されていく。…「ときのふるい」は残酷なんだよ。

妹について…生まれたときにもう寿命何ヶ月って言われてたんだよ。…僕とは五つ違い。…僕は長男だから、妹に全部母親の愛を持って行かれた感じだった。まだ幼稚園児だったから、けっこう厳しいものがあったよね。…小学校に通うのに学区域ってあるじゃない?僕と妹は区域外から通学してて、母親が毎朝送るんだけど、母が行けないときは僕が責任持たないといけなかった。妹は唇が青くて、すぐに息が切れちゃう。だから妹のランドセルを持ってあげるのが日常って言うのかな。いつもランドセルを二個持ってた。坂もあってさ。重いんだよ。…妹は苦しいとか泣き言を言ったのを聞いたことがない。すごくしっかりしてた。ちゃんと短大まで行って、就職して。…職場で倒れた。もう無理だった。…妹が死んだときは本当に世界が白黒になっちゃって。…
詞も断って、大滝さんの「A LONG VACASION」も断ったんだけど、大滝さんは待つって言ってくれて、それでニ、三か月で色も戻った。精神的にも立ち直ってきたんだよね、きっと。
 妹はたぶんユーミンと同い年なんだよ。あのへんがみんな妹の代わりになってる。ユーミンとか太田裕美とか。

お金について…みんな間違ってるのは、お金を目標にするから。稼ぐことが目標になっちゃう。でも、そんなことは考えない方がいい。稼ぐとしたら、結果で稼ぐ。なにかをやって、その結果としてお金を稼げてるっていうのが自然な流れだと思う。
お金は本当は目標になり得ないだよ。…もっと野心とかそう言う事。自分の名前を残したいとか、人より上に行きたいとか。それは健康的な競争心だからいいと思うんだ。

 SNSで友達申請してくるカネの亡者みたいな方々に最後の言葉は金言だ。

 カネは結果としての成果。
 私は松本さんとは違って、カネ稼ぎはご自分の野心としては良いとは認めるけど、他人を巻き込まないで欲しい。

 妹さんに対する松本さんの想いは風街ライブ45周年記念コンサートのラストでも話をしていた。
 ランドセルの件は泣かせる。
 大滝さんの代表曲♫君は天然色 は実は亡き妹さんへの鎮魂歌だった。
 そうやって聴くと、大滝さんの唄は何だか哀しく聴こえてくる。
 あんなに明るく開放的な編曲なのに…

♫想い出はモノクローム 色を付けてくれ 
 もう一度そばに来て はなやいで麗しのcolor girl