☆岡 晴夫 1️⃣

 独特の鼻に掛かった声で戦前戦後を通じてヒット曲を量産、この人の唄う歌は正に現代演歌に通底している。
 千葉県木更津出身で地元の音楽教室に通う程歌が好きだった。
 人前で唄うことを音楽教室の師から勧められるも中々そのチャンスに恵まれず、当座は万年筆屋に就職してやがて上野松坂屋の店員になる。
 岡の大衆音楽への拘りは、こうした下積み時代のデパート店員といった経験値から培った思想であり後々、スター歌手になってからも、常にファンと共にあったその姿勢は終始一貫していた。

 1934年昭和9年、岡は歌手への夢断ち難くデパートの店員を辞し都内の上野、浅草を中心に流しをして過ごしていた。
 やがて地方にも出張するようになり旅先で流し仲間として知り合った後の作曲家上原げんとと知り合い意気投合、各地で旅周りの流しとして鳴らした。
 今では完全に廃れたが戦前のこの当時、街の居酒屋やいわゆるトリスバーなどではギターを片手に流し(演歌師)が一杯気分の酔客に声をかけてリクエスト曲を弾き、唄に自信のある流しは弾き語りをすると言うスタイルを主として生計を立てていた。
 現代演歌の大家である五木ひろしや♬夢追い酒 のヒットで知られる渥美二郎などは流し出身の歌手である。
 この流しの唄う流行歌はその時々の流行り歌であり岡が鳴らしていた当時なら、その頃頭角を現していた東海林太郎やポリドールの新星上原敏ら音楽学校以外の大学出身者たちが歌手として認められ始めていた頃であった。
 ♬赤城の子守唄 ♬旅笠道中 ♬落葉しぐれ(戦前の上原敏のVer.で戦後のものとは同名異曲)        ♬上海だより ♬妻恋道中 ♬国境の町…どれも哀愁に満ち、親や妻、友人や彼の人に対する愛や郷愁と言った抒情歌が謳われていた。
 それまでの流行歌界、レコード界で名のあるシンガーと言えば大抵は音楽学校出のクラシック畑の人たちが昭和一桁代は主流だったが、昭和9年に大ヒットしたジャズソング♬ダイナ で当たったディックミネや東海林太郎辺りからはそれ以外の大学卒の一群がデビューしてヒットを飛ばしていく。
 つまり正規な音楽教育を受けていなくとも、フィーリングや表現力があれば、音盤デビュー出来ると言う、これは歌手を志す者からしたら…ひょっとしたら自分にも!と言う夢を与えたのだった。
 上原敏は専修大学野球部出身でわかもと製薬に就職後、歌謡界入りした変わり種だった。
 岡晴夫は1938年昭和13年8月にキングレコードのオーディションを受けて合格、上原げんと共に採用。
 翌年2月 ♬国境の春 でデビューする。
 続く戦前の岡のヒット曲のほとんどは上原げんとの作品である。
 その♬国境の春 を早速聴いてみよう。


♬国境の春 は↑ココをタップする。



 岡が上原げんとと流しをしていた頃、銀座のカフェで唄っていたところにたまたま、東海林太郎がその場に居合せて大変な激励を受けたと言う。
 岡の歌が終わるとわざわざ席から立ち上がって二人の手を握り励ました、と菊池清麿がその著書にかいている。
 これにより二人は大いに自信をつけ、レコード会社のテストを受けたのだと言う。
 東海林が感激するほどの高音美声だった訳だが、確かに岡の声はマイク乗りが非常に良い。
 後年、ミキシング技術が向上しSPレコードにエコーを掛けて復刻した音などを聴いていると、岡の伸びやかな高音とリズム感の良さは確かに、音楽学校出身者にはない独特の唱法であり、これぞ正当的流行歌の歌唱法と呼ぶに相応しい声である事が分かる。
 ♬国境の春 はデビュー曲にして見事にヒット、岡は幸先のいいデビューを飾ることができた。
 続く♬上海の花売り娘 はそれを更に上回る売れ行きを示し、岡は早くもスター歌手の仲間入りを果たす。
 

♬上海の花売り娘 は↑ココをタップする。



 同じ1939年昭和14年に♬島の舟唄 でデビューするバタヤンこと田端義夫は名古屋の旋盤工だったが、やはり歌が好きで場末の飲み屋に訪れる流し達の哀調を帯びた、演歌師達の歌声が好きであった。
 ただでさえ細い目をしばたたせ乍ら哀切を訴えるかの様な独特の悲哀に満ちた田端の歌声は、やはり独特だがそれはこうしたクセのある演歌師らの悲哀を絞り出す様な歌声からの影響とみれる。
 非音楽学校出身者的傾向の強い昭和10年代の時代の気分で、素人から流行歌手になるケースの一典型であったが、田端のデビューについては菊池清麿の著書では新聞社とNHKの共催した歌謡コンクールで三位になったのがきっかけと書いているが、ディックミネの自叙伝には、ディックの舞台を観ていた田端が客席でディックの歌に合わせて唄うのを嫌ったディックが楽屋に田端を呼び、一発殴ってやろうとしたところ田端が切々と歌手になりたい…と訴えたのにほだされて、ディックがポリドールレコードへ繋いだ、と書いていた。
 岡と田端と近江俊郎は戦後三羽烏と呼ばれたが、田端は晩年のインタビューで岡とは三羽烏なんて呼ばれて、デビューも一緒で仲も良かったが密かに尊敬をしている、と告白していた。
 それは唯一無二の歌手としての個性、そして何より支持してくれるファン第一主義だった点、それをデビュー当時から亡くなる晩年まで揺らぐことなく貫き通した人だった…と最後に泣きながら回想していたのが印象的だった。

♬港シャンソン は↑ココをタップする。



 次回は岡っぱるの珠玉の戦後名曲集をお送りする。
 やはり岡晴夫と言えば戦後の作品であるが、それはまた次のおはなし。



参考文献:昭和演歌の歴史/菊池清麿著      
           アルファベータブックス刊