☆リーワイリー 女性ボーカルの元祖
1915.10.9 - 1975.12.11
ワイリーとヤング
アメリカのポピュラー音楽はそれを表現するシンガーの存在なしには語れまい。
ポピュラー音楽の発展にはレビューショウの存在が不可欠だった。
やがてスケールの大きなミュージカルがレビューのそれに変わり舞台での表現者も大人数に広がっていくのだが、その過程で或る1人のシンガーにスポットライトが当たる。
エセルウォーターズの登場である。
ニューヨークのリンカーン劇場でスター歌手になったとき彼女はまだ17才だった。
そのエセルのレコードを聴いて歌手を志したのがリーワイリーである。
リーの証言である。
「わたしは彼女が大好きで、彼女のスタイルを取り入れ、それをもっと穏やかなものに、もっとレイディライク(上品)なものにしました。」
リー、15歳の春であった。
やがて彼女はニューヨークでシンガーとして成功を収めるのだが、彼女の中に常にあるもの、それは我が信念を曲げない。
そうした不屈の精神は生く先々でお偉方との衝突を生む。
彼女の下積み時代から付き合いのあった音楽家ヴィクターヤングはリーが1930年にデビューした当初からレコード編曲家として頭角を現していたが売れたのはリーワイリー自身の方が先であった。
リーと私生活上でも交際していたヴィクターヤングだったがリーの最初のヒットレコードはレオライスマン楽団名義で吹き込んだ♫Take It
From Me だったからリーが直接レコード会社に談判してヴィクターヤングの楽団をバックにレコーディング出来るまでにはデビューから2年間待たなければならなかった。
1933.1.21に録音された♫You're An Old Smoothie でリーはビリーヒューズとのデュエットだった。
イントロで聴けるヴァイオリンはヤング自身だと思う。
ヤングは不遇時代の1930.5.15にアイシャムジョーンズ楽団で♫スターダスト のレコーディングアレンジを施した際に冒頭や間奏のヴァイオリンを自ら弾いていたのである。
やがて彼女がNBCの人気ラジオ番組「クラフトミュージックホール」の専属歌手に抜擢されるとたちまち彼女の歌声は全米に流された。
この放送を聴いてリーワイリーはファンを獲得して行ったと言われている。
そして後のボーカリストたちに与えた影響は多大なものであった。
リーワイリーのスタイルはそのクセのないシンプルな歌唱が全てである。
そして時折かすれるハスキーな感性がその魅力に一役買っていた。
リーの長年の友人でプロデューサーのラリーカーはこう分析する。
「リーは早い時期に、シンプルなほどいいと言う結論に達し、それ以来、この信念は変わらなかった。シンプルなものを愛すると言う彼女の特質は、彼女にまつわる一切にはっきりと見て取れる。シックな装い、髪型、そしてもちろん彼女の歌」
あるインタビューで語った彼女のことばが残っている。
「わたしはガットバゲット(熱っぽくて土臭いスタイルのジャズ)は歌いません。ジャズは唄わないのです。ただ普通に唄うだけです。ヴィヴラートを掛けたり取ったりすることはありましたけど、声に小細工してもしようがないでしょ」
このリーの信念は、その後派生した無数のボーカリスト達への大きな指針となったがその影響はそれに止まらない。
第二次世界大戦後に勃興したボーカルがメインストリームになる現象がやがてひとつのジャンルとなるほどのものとなったのには、やはりこのリーワイリーと言うシンプルを貫いたボーカルスタイルがあらゆるボーカリスト達へ一つの大きな羅針盤となったことは揺るぎがないのである。
愛の幕切れ
1935年の或る日のことである。
「クラフトミュージックホール」の大黒柱はベテランのポールホワイトマン率いるオーケストラだったが、リーは好きだったヴィクターヤングの為に何とか彼のオーケストラで歌わせて欲しいと番組プロデューサーに取り入り、それを実現させた。
何と言ってもリーは既に番組の花形シンガーになっていたからだが、不本意なことにヤングの名前はアナウンスされなかった。
ワイリーは高潔で義理堅かった上、権力組織のやり方や欺瞞を軽蔑していたから、最初は我慢していたがそうした局のやり方に怒りを覚え次の契約更新のときには、サインをせずに番組を降りた。
彼女は結局、自分のやり方でしか仕事をしなかった。
そうした音楽活動に浮き沈みを招く一因は兎にも角にも彼女をスーパースターにしなかった大きな要因と言えると後の評伝には書かれた。
が、しかし。
彼女はそれで満足だったろうと思う。
なぜなら、彼女はしたい通りに仕事をし、それでも、いい仕事は得られたのだから。
だが、程なくあんなに愛していたヴィクターヤングとは方向をわかつ事になる。
彼女がラジオ番組の契約を破棄したとき彼女は結核に罹ってしまう。
そして療養のためアリゾナに向かったがヤングはハリウッドを目指した。
長いお別れだった。
その後ヤングが数々の映画音楽を手掛けて不動の地位を持つことは有名な話である。
1937年に新興レーベルのデッカでヴィクターヤング名義で当時はまだ珍しかった12インチ盤(L Pレコードのサイズ)で名作2曲を吹き込む。
2年振りの再会でリーワイリーは感慨深気にこの歌を熱唱した。
ヤングのアレンジは見事で、起伏に富んだその編曲はまさにリーワイリーに捧げられたものである。
一年後、癒えたリーはジャズトランペッターのバニーベリガンと共にニューヨークで開かれていたサタデーナイトスウィングセッションに常連ゲストと言う役で出演し、再び脚光を浴びる。
そして彼女は義理の兄弟であるジミードーンが経営するニューヨーク東52番街にあるフェイマスドアに出演した。
ここはいわゆるジャズクラブで後にビリーホリデイも専属となる。
そしてクラブの常連バンドは抜群のコンポーザーだったエディコンドンとその一派である。
自らジャズシンガーを否定していた彼女だが彼女のシンガースタイルは結果的に生粋のジャズマンに好まれてしまう皮肉である。
そして話はいよいよ本題に…
1939年の或る日 広告業に携わる若き音楽ファン、ジョンデヴリースはリーに言った。
「リー、ぼく昨夜思いついたんだ。ポピュラー音楽の作曲家達はもっと敬意を払われるべきなんだって。その為にはキミがそう言うソングブックを作れないかな…。」
リーは素晴らしいアイデアだわ❗️と快諾した。
しかしジョンはメジャーなレコード会社(コロムビア、ヴィクター、デッカ)がワイリーを軽んじているのが我慢ならなかった。
そこでジョンが小さなインディペンデント系レーベルの幾つかと交渉し話を付けた。
伴奏はリーがフェイマスドア以来親交があったエディコンドンとシカゴアンズの面々。
そしてそこには比類なき楽天家の名作曲家にして名ピアニスト兼オルガニストのトーマス"ファッツ"ウォーラーの姿もあった。
コンドン一派はジョンのアイデアに参加を快諾、弱小レーベルゆえにギャランティも最低賃金しか払えない事を付け加えるとコンドンらは言った、…Don't Worry!
こうして世界初のクラシックポピュラーソングライターのソングブックアルバムがリリースされた。
先ず手始めは2年前に亡くなったばかりのジョージガーシュインからだ。
1939年11月14、15日の2日間に渡って録音された。
当日のバンドリーダーだったトランペッターのマックスカミンスキーはこのアルバムを最大の賛辞でしたためる。
「リーワイリーのアルバムは時代の何年も先を行っていた。リーは来たるべき時代のスタイルを生み出したのだ…やがて、だれもが彼女の真似をすることになった」。
リーが約10年後に傑作アルバム「Night in Manhattan」の中で唄った傑作中の傑作♫あなたに首ったけ のオリヂナルがこの2日目の第一曲目に録音された。
かく言う私もこのオリヂナルアルバムを一時期所有していた。
今はもう手放してしまったがその証拠をお聞かせしよう。
これがSP盤からの板起こしであることがスクラッチノイズからお判り頂けるはずである。
曲はガーシュウィンの傑作♫スワンダフル
明くる年の2月には傑作曲を量産したロヂャース&ハートのアルバムを同じバンドで録音。
2日目の録音からポールウェストンがアレンジャーとして参加、彼もリーワイリーの信奉者だった。
曲は名作♫ユートゥックアドヴァンテッジオブミー
'40の4月に入りリーワイリーは気心の知れたバニーベリガンのチームとコールポーターのアルバムに着手する。
この4月10日のセッションは運良くMerittレコードの全録音盤を昔神田神保町のTonyレコードで入手した。リハーサルからリジェクトされた盤までそっくり収録されて興味が尽きない。
今回は♫Let's Do It のリハーサルバージョンを掛けよう。
冒頭のベリガンのミュートペット演奏に明らかなミスタッチが認められる。
珍しいリーワイリーやベリガンの肉声も聴けるレアな音源である。
5日後のセッションではポールウェストンのバンドで残り4曲を録音。
コールポーターの傑作曲♫Easy To Love を
お聴き頂こう。
1940年2月にはハロルドアーレンのアルバムをエディコンドンらのバンドで吹き込む。
ハロルドアーレンは自らもボーカリストとして活躍した。
トランスジェンダー系の中性声が魅力だった。
若き日のビングクロスビーがドーシーブラザーズらを従えて録音した傑作盤が印象的な♫アイヴガットザワールドオンアストリング
こうして極初期のソングライターアルバムは一時期に怒涛の勢いで録音されて、1940年に全てリリースされた。
もちろんそれらはリアルタイムではさほどの評価はされなかった。
それどころか弱小レーベルからのリリースゆえに大した宣伝も為されずに歴史の中に暫くは埋もれてしまった。
ボーカリストの時代は第二次世界大戦後に漸く訪れてやがてレコードの媒体そのものの技術革新に伴い、丁度リーワイリーが世に名高い傑作アルバム「Night in Manhattan」をリリースした1950年からはビニライト製で録音時間も格段に長くなったLPレコードが市場に出回り始めシェラックと言う落とせば割れてしまうレコードはやがて消えていく。
従って時代の過渡期にリリースされた「Nigh
in Manhattan」はSPとLPの両方のアルバムが存在するのだが、それはまた別のお話。