☆ビクターレコード時代1️⃣

 1933年昭和8年3月、寒々とした真冬のような寒さの日に増永青年の凛々しい姿のスナップショットには白手が嵌められている。

 東京音楽学校を首席で卒業した増永青年は大方の予想を裏切りビクターレコードとあっさり3年の専属契約を交わした。
 
 現在放映中の朝ドラ“エール"は作曲家の古関裕而とその奥さんの話が描かれているが本稿の時代もほぼ同時代。
 このドラマでも描かれている通り、学生時代は音楽学校でクラシックを学んで皆、高尚な志だったが、いざレコード会社と契約を結ぶと、流行歌を歌わざるを得ない、それは今も昔も一緒だがこの時代はそれがもっと顕著で、やはり流行歌は一攫千金いや、それ以上に高い確率でヒットに当たれば夢のような生活が保証された。
 その先鞭を付けたのがこの Mr.藤山である。

 藤山がまだバイト時代に同じコロムビアで知り合った淡谷のり子から譲り受けたシトロエンに乗ったのが初自家用車で、2台目のルノー1928型の時、浜松市を走行中に故障してしまったが、その時修理に当たったのが、後々のHONDAの創業者本田宗一郎氏の若き日の姿だったと、戦後大分経ってから本田本人から藤山は聞き大変恐縮したとか…。


 藤山のビクターレコードでの初録音となった♬赤い花 のエッセンシャルなハイバリトンの藤山の声が綺麗なのだが、当時の流行歌のクォリティーの高さに腰も砕ける思いである。


♬赤い花 は↑ココをタップする

 その2枚後にリリースされた♬浅草の唄 は西條八十の作詞に中山晋平が作曲。
 新人であることには違いないけど我々はコロムビアでテクニシャン藤山の実力の程を聴いてしまっているだけに、詞曲共にベテランを宛てがったと思われる。
 安定のヨナ抜き短音階の現代演歌の素みたいな晋平調流行歌である。
 尚、終戦直後の1947年にも同じタイトルの盤がコロムビアから藤山一郎の唄でリリースされたが、この曲とは全く違う、同名異曲である。


戦前版♬浅草の唄 は↑ココをタップする

 次の曲は藤山のビクター時代一番のヒット曲である(18万枚以上)。
 当時から大島、三原山は風光明美な観光地であった。
 昭和初期に♬波浮の港 が大ヒットして一大観光地と化したのだ。
 それに続き同じビクターから昭和8年の初頭に小唄勝太郎の唄で♬島の娘 が大ヒット。
 それは別に大島を歌った訳でも何でもなく寧ろその艶っぽい詞が受けた。
 それに続き♬大島おけさ が又々ヒット。
 勝太郎の時代であったが、その裏面にカプリングされたのがこの♬燃える御神火 だった。
 しかし、長引く不況から生活苦に耐え兼ねた人々が三原山の火口に身を投げる凄惨な投身自殺をする者が急増したのもこの頃の特徴であった。
 ♬…山の煙よ いつまでも  と言う最後のフレーズが印象的な♬燃える御神火 どうぞ


♬燃える御神火 は↑ココをタップする

 1933年昭和8年は昨年上皇へとなられて実質的に任意引退された明仁親王がご生誕された。
 昭和天皇と香淳皇后との間にそれまで4人の皇女がお産まれられていたが、皇位継承者は男子と言う皇族典範に於ける鉄板の法則により男子のお誕生が長らく待たれていた矢先の出来事であり、これには国民こぞって祝意の気分が盛り上がった。
 藤山は、東京音楽学校昭和7年度の卒業生にして声楽科首席の卒業に加え、華やかな流行歌手と言う知名度から、明けて1934年昭和9年1月と言う早い時点で♬皇太子殿下御生誕奉祝歌 を急遽リリース。
 西條八十の詞 そして当時新進作曲家だった飯田信夫の作曲になる。
 皇室関係では翌年1935年昭和10年3月にも♬多摩の大御狩 をリリース。
 A面に明治天皇御製、B面は奥方の昭憲皇太后御歌を吹き込む。
 但し後者は本名の増永丈夫名義であった。
御前演奏時のスナップ


 さて、1934年昭和9年のビクター時代を振り返っていこう。
 I月にいきなりリリースされたのは浅田飴本舗の御曹司にして日本の流行歌史黎明期より訳詞を手掛けてきた堀内敬三が作った♬貫一と浪子 と♬玄冶店 の裏表両面に参加、東音大の先輩 徳山環とプリマドンナ小林千代子らと共演。
 貫一と来ればお宮だが、金色夜叉と不如帰がごちゃ混ぜになってる加減が可笑しい。
 小生♬玄冶店 しか聴いたことがない。
 3月には♬いとしの今宵 ビクターに於ける初のポピュラーソングのカバーで聴き応えあり。
 裏面も♬君は微笑む がカバーで若き日の服部正がアレンジしてビクターサロン楽団の特性を十二分に発揮している。
 5月 別れ煙草 はスロウな青春賛歌。
 裏面の♬チェリオ! はプリマドンナ小林千代子と共演したコミカルなジャズソングで新進気鋭の佐伯孝夫が詞を書き東京音楽学校の教授にして先進派だった橋本國彦が作曲と言う異色の取り合わせが寧ろ嬉しい。
 重厚そうな歌曲を多く手掛けた橋本氏の息抜き的なポピュラーソングである。


チェリオ!  は↑ココをタップする

 そして7月、藤山の流行歌手としての真価が問われた一編♬また逢う日まで がリリースされた。
 西條八十はパリ帰りのエレガントな純正詩人から日本の流行歌の礎を作った人、片や作曲の福島浪江町出身の佐々木俊一は戦後までヒット曲を繰り出す職業作家。
 そこに東音大を首席で卒業した藤山ががっぷり四つで対峙した…と言うと語弊はあるが、とにかく藤山一郎のビクター時代の佐々木俊一の作品は3年強の間にわずか4〜5曲程度。
 この曲は高音から低音まで音大出の藤山なら比較的簡単に発声しているが、兎に角難解この上ない。
 因みにカップリングは小唄勝太郎の♬恋のお七 である。
 それにしても藤山の名唱が光る逸品である。


♬また逢う日まで は↑ココをタップする

 9月 川畑アリス文子の二世歌手の人気に沸いていた機運に急かされコロムビア以外のレーベルもロスアンゼルス辺りの日本語を全くダメだけれど、日本人の血が確実に混じっている歌好きの少女をスカウト、各社挙げての二世歌手合戦の様相を呈するがビクターは川畑と同じ17  歳のヘレン隅田を華々しくデビューさせる。
 タップもダンスも器用にこなしピアノも自ら弾いた。
 選曲もイカしていて戦前はよく聴いたのに戦後は全く顧みられることのない歌曲がラインナップされている。
♬ザッツマイベイビー(可愛い眼)   やエディキャンターの十八番♬イフユーノウスージー など昔の粋な曲ばかり。
 このヘレン隅田の紹介文は今でも矍鑠たる評論家瀬川昌久氏によるが、雑誌「レコードコレクターズ」誌創刊号で中々爽快なる辛辣極まりない事をお書きになっているのでここに引用する。
 このセリフは、今でも充分通用するからだ。

…今のプロの歌手も、馬鹿の一つ覚えに1001だけを追っ掛けないで、たまにはこう言う昔の佳曲を掘り起こしてみたらどうだろうか。…


♬おゝどんなくらら は↑ココをタップする

 翌月10月、裏表両面に訳詞を施した妹尾幸陽の訳詞で♬古戦場の秋 詳しい資料はないが多分アチラ製ポピュラーソングであろう。
 その裏面♬蒼い月 こちらは藤山の名唱が有難いことに復刻されているので、ここで聴いて頂く。
 山田耕作の旧友にして日本人フルーティストの草分け的存在であった岡村雅雄のフルートがこの上なく効果を上げている。


♬ペールムーン は↑ココをタップする

 今回最後は翌11月リリースの藤山の意外なポピュラーソング♬ミッキーマウスの結婚 をお送りして締めよう。
 この前年にイギリスでリリースされたヘンリーホール楽団の♬ザ・ウェディング・オブ・ミスターミッキーマウス のカバーである。
 本来なら設定されてないミッキーマウスとミニーマウスの結婚式を大胆?に歌い上げている。
 共演の平井英子は元来子役歌手だったが、この年16歳。
 童謡ばかり歌っていた少女がちょっぴり大人になってミッキーマウスの結婚を明るく唄う。
 更に3年後、19歳の時に太っちょスター岸井明と♬煙草屋の娘 では更に色気を振り撒き煙草屋の看板娘を演じていた。


♬ミッキーマウスの結婚 は↑ココをタップする。

次回はビクター後期を押さえて行きましょう。