☆兄  丙午

   黒澤明の4歳上の兄  丙午は秀才の誉れ高く、小学5年の時に東京府の学力試験で3位、6年の時には1位であったという。
   それ程までに優秀であったから周囲は丙午がエリート校の府立一中に進学することを全く疑っていなかったし、本人もそのつもりであったのだろう。
   しかし丙午は入試に失敗する。
   結局成城中学に進学したが、この時期を境に丙午の性質が急激に変わる。
   学業に対して投げやりな態度をとり、外国文学に傾倒した。
   どの段階で触れたのかは不明だがロシアの作家アルツィーバーシェフの『最後の一線』を世界最高の文学とし座右の書としていたという。
   また黒澤家が映画鑑賞に対して当時の世間一般の家庭とは異なり非常に理解が深かった下地もあってか文学への関心は映画へも広がり、大正10年頃(丙午15歳頃)には黒澤遥村、黒澤粋眼、はるか・むらといったペンネームで活動写真館のプログラムに映画評を投稿するようになる。
   中学を卒業する時期となり丙午が尋ねたのが、近所に住んでいた説明者の山野一郎であった。
   映画説明者(=弁士)になりたいという丙午の頼みを一旦は止めた山野だったが、熱意に負け自身が勤める武蔵野館の見習いとして採用した。
   武蔵野館での見習い期間は約四ヶ月、知性もあり文学の素養も深い丙午は喜劇や短編をこなし、山野の口利きで葵館へと移る。
   この時期に結婚をしたらしい。
   さらに大正14年中頃からの約二年間、神楽坂の牛込館に勤める。

   ちなみに牛込館からはプログラムに須田貞明の名が掲載されているが、葵館のプログラムには須田貞明の名が載っているものの現存は確認されていない。
   その後、神田のシネマ・パレスで二年間、浅草と新宿の松竹座を掛け持ちで約一年間、トーキーがいよいよ台頭してきた昭和5年末より浅草の大勝館にて主任弁士を勤める。この大勝館が貞明最後の職場となった。
数少ない丙午の写真


 昭和4年、トーキーの輸入、公開が開始される。
   この時期は字幕を焼き付ける技術が確立されておらず外国語トーキーでは映画の台詞の合間に弁士が日本語で喋ったり、トーキーの音量を落して映画の音声と戦うようにして説明をしていた。初期のトーキーは音響面からいって満足なものではなかったが急速に向上する音質、スーパーインポーズの完成によりいよいよ説明者、楽士は不要となる。
    映画館経営者はこれらを解雇したい、説明者、楽士は馘になれば生活が立ち行かぬとあって意見は対立、ついに大規模なストライキとなって世間を騒がした。
   須田貞明はこうした一連の騒動で松竹系争議委員長となり、トーキー争議の先頭で会社と戦わねばならなくなった。
   交渉の末、突然の解雇と減給は免れたが、これは争議団にとって満足のいく結果とは言えなかった。
   このため争議団長であった須田貞明に批判が集中、彼は姿を一時くらまし自殺を試みるがこの時は未遂に終った。
   須田貞明は自殺の常習犯であったそうだ、これ以前にも3回自殺を図った事があると山野は書き残している。
   そのいずれもが生まれた子供が亡くなった直後である事も。

 この時期、須田の妻には再び子供が生まれている。また、妻とは別に暮らしているカフェー勤めの女給みち子こと中村いま子なる女性も居た。

 そして自殺未遂の後、1カ月の入院生活を経て退院、弁士仲間の山地幸雄の楽屋を尋ねるなどして昭和8年7月10日、須田は中村いま子と湯ヶ島温泉落合楼にてカルモチン(鎮静催眠薬の一種、毒性は低く死亡する例は少ない)とネコイラズを飲んで心中を図った。
   貞明は介抱の甲斐なく間もなく絶命、みち子も15日朝死亡した。

 宿には5通の遺書が残されていたという。
   その全体像は定かではないが三好千曲(みよし せんきょく)という弁士が無声映画鑑賞会発行のクラシック映画ニュースに須田の事を書いている。
   その中に須田貞明の遺書と思われる文面が見られるので紹介する。
   三好は須田と同じく松竹系で永らく説明をしていた経歴がある。
   5通のうち1通が同業者に向けたものであれば三好が須田の遺書そのもの、ないし写しを見ていた可能性は高い。

  フンキュウセルジタイノセキニンヲツウセツニカンジル、ショクンノキタイニソムキシハイカン、コレヲモッテユルサレヨ

 須田貞明 享年満27歳であった。
ブログ「弁士列伝  須田貞明  その1閑話休題」kaiten kyugyou著より

   以上は極めて客観的な丙午のコラムだが、弟 明が書いた自叙伝の中の丙午は常に兄然としており幼少期の明の人格形成に大きな影響を与えた。
   又、二十歳頃プロレタリア運動に身を投じていた明が体調を崩して同士らと連絡が取れなくなった末に行き着いたのは、神楽坂の兄 丙午の家であった。
   自叙伝には、その神楽坂時代に起きた世知辛い出来事など明の青年時代の焦燥などが映像的文章で綴られている。

   ところで、黒澤丙午についてインターネットで検索していたら、優れた映画批評を書くエッセイストの四方田犬彦は、アメリカで日本文学を教えている友人が、黒澤明の兄の研究を始めたと言っていた。
   丙午が弟に与えた影響には決定的なものがあり、黒澤映画を解く重要な鍵が隠されていると言う。
   小生もそれに激しく同意する。
   それは黒澤が書いた自伝のようなもの   を読めば自ずと分かってくる。
   黒澤の兄への思慕振りを何のためらいもなく描く心根は、如何に兄を慕っていたかの証左でもある。


   黒澤がまだ少年時代だった大正12年9月1日の関東大震災の後に黒澤は兄に誘われて地震で荒廃した大東京を見物しに行ったことが記されているが、焼死した遺体に隅田川に飛び込み水膨れした人間とは、とても思えない遺体などがかなりドギつい描写で書かれている。
   それらが幾重にも折り重なり、とても此の世の光景とは思えなかった、という。

   しかしながら、兄は弟に敢えて…目を背けるな!と嫌がる弟に厳しい態度で接したことが書かれている。
   丙午は兄としてひ弱だった弟に現実から目を背けるな!と厳しく一喝したのだ。
   それが兄の一貫した教育だった。
   途中、僧侶が丸焦げになった死体が立ったままの状態で佇んでおり、凄まじい業火の様を物語っており、黒澤は思わず息を飲んだが兄はそれを厳しく凝視して一言だけ言った、…立派だな。
   

   やがて黒澤明が青年に成長してプロレタリア運動に身を投じ、連絡係として憲兵の目を盗むような生活を続けていた折に、黒澤は兄の住む神楽坂の長屋に世話になる。
   黒澤は高熱を出して病臥するが、熱が冷めた頃にはすっかり非合法活動への意欲も同時に覚めてしまったと言う。
   兄はそこから近くの牛込館に通って活動弁士をしていた。
   長屋住いは一見、ご近所との交流がありお気楽で朗らかに思えたが、ある日黒澤は憤まん遣る方無い光景を目にする。
   近所に継母による継子いじめがあると言うのだ。
   事情を知る近所の女将さんが見るに見かねて柱に縛られているその継子の女の子をどうか救ってやって欲しい、と悲痛な訴えを明にしてきたのだ。
   正義漢に燃えた明は丁度継母が留守だったので、その長屋に押し入り継子の柱に括り付けられた紐を解いてやってると、その子は御礼どころか明に食ってかかってきた。
   唖然とする明にその継子は…何だってあんたはこんな余計なことをするのさ‼️
   あたしはここから逃げ出す訳にはいかないのよ?あなたはあたしの何を知ってこんなマネをするのさ‼️
   さ、とっとともう一度縛り直して頂戴!
   後頭部を殴られたような衝撃が走り、スゴスゴと明は言われるがままにするしかなかった。
   処置無かった…

   生半可な同情は返って相手を傷付ける

   下手な正義感は時として災いにもなる

   黒澤の若き日に味わった教訓だった。
   黒澤の後に作った映画に「赤ひげ」があったが、この暗い話が活きているし物語の舞台となった小石川療養所は現在の後楽園の辺りだったから神楽坂辺りの長屋は距離的にも近く黒澤がモデルにしたと思われる女の子は物語の中で二木てるみが演じたおとよ  と被る。
   可哀想な境遇からおとよを救い出す赤ひげの三船敏郎により岡場所の用心棒をカッコよく撃退した後に、その余りの用心棒達のやられようや倒れる様を見て…これは酷い、こんな事をしてはいけない!   と自虐的に呟き、共添えの保本に骨折の治療を命じる場面は観客の笑いを誘うのだが、これは若き日に自分が救い出せなかった少女への明らかな夢想である。
   黒澤の想いが秘められた場面に、鬱屈した観客のカタルシスを昇華させる場面に差し替えた黒澤の優しさを感じさせるエピソードである。

   1933年昭和8年に伊豆の旅館で妻とは別の女性と薬を飲んで心中を図った兄の変わり果てた姿を見て明は、死体の検分に訪れ血塗れのシーツに包まれた兄の遺体を見て暫く放心状態だったが、気丈な父により遺体を起こす作業を手伝った。
   この死を境に兄から生前、映画界に誘われていた明は真剣に映画界入りを模索する。
   戦後直ぐに作られた黒澤の「我が青春に悔いなし」も物語は1933年から始まる事を四方田犬彦が指摘していた。