☆妻  文

   芥川龍之介未亡人の文さん

   明治33年1900年  海軍士官  塚本善五郎の長女として東京生まれ  大正7年1917年に17歳で芥川龍之介と結婚💒

   結婚から丁度10年目の昭和2年1927年7月24日に未亡人となってしまう。その後、まだ子供だった3人の男の子、比呂志、多加志、也寸志を立派に育て上げた。
   長男比呂志は演劇界の重鎮となったし、三男也寸志も東京音楽学校🏫現  東京芸大出身の現代音楽家となりメディアにもよく出演していた。次男の多加志は太平洋戦争に従軍して戦火の露と散った…無念。

   昭和50年1975年に中公文庫から発行された「追想  芥川龍之介」は中野妙子氏が昭和38年1963年から昭和43年1968年迄の間に芥川文さんから聴き書きしたものを歌誌「樹木」昭和39年1964年6月から昭和44年5月迄連載されたものを完本とした物である。

   昭和56年1981年に改発行したものを最後に再版されていないのが、非常に残念だが昭和50年に発行された中古本をAmazonで見たら¥4,800だった💦初版本と同等扱いという事なのだろう。
   小生は昭和56年の再版を蔵しているが此れとてAmazonでは¥900で売られているし…。
   状態が良ければその位で売れる目安にはなる。
   どうしても欲しい方はヤフオクで探す事をお勧めする。
   或いは季節もよくなってきたので神保町に行って古本屋巡りでもされる事をオススメするが蛇足乍ら、一言アドバイスをさせて頂ければ文学書の老舗  八木書店 ははっきり言って敷居が高い。従って値段も高い(^。^)
   こう言う時には格好の店、西神田の  西秋書店  がおススメである。
   店は狭いが文芸評論に特化した品揃えが嬉しいし、何かに絞って探すならここに行けばかなりな確率でお目にかかれること請け合いである。
   
  さて、肝心の本文だがこの文夫人の人柄が良いのが本書からひしひしと伝わる本である。
   解説でイギリス文学者の磯田光一が書いてる本書評曰く、

…その目がまったく曇ってないと言う事である。作家の遺族の場合、とかく故人を華美な意匠で飾り立てがちなものだが、この追想にはそういうところがまったくなく、じつに淡々としていて快い。…(中略)
養父母が、経済生活を握っていた家庭では、文さんの心づかいにも細かい苦労があったであろう。ところがこの追想には、愚痴がほとんど姿を見せない。焦点は龍之介その人に向けられているのである。…
新婚当時(大正7年頃)


   芥川龍之介の表には決して見せる事のない人間 芥川龍之介が浮き彫りにされるのである。
   この中で一番印象に残ったエピソードは、大正15年4月末から鵠沼海岸の東屋旅館に家族で滞在していた間に、芥川から唯の一度になる旅行に誘って貰い一泊でも、実に充実した時間だったと回想する箇所があり、昔のありふれた夫婦って皆んなこうだったのかな、と想像させる件(くだり)である。
   場所は湯河原の中西旅館であり、その時の旅館での文さんの感慨が又、実にいい。
   
   …翌朝になり、部屋の窓を開けると、さわやかな朝の空気と共に、まわりの新緑が、あけた窓の面積の幾倍もの面積が広い
   その帰りの電車の中で芥川は不意に横に長い二等車のシートに思わず横になるシーンのやりとりが何とはなくいい雰囲気なので紹介する。
   
   …汽車に乗ると、疲れている主人は、シートの上に横になってしまいました。
   幸い二等車は乗客がなく私達だけでしたので、主人は楽に横になれました。
   汽車が動き出すと、私にも軽い疲れが出て来ました。
   私は主人に、
   「温泉にも連れてきて頂いて、ありがとうございましたが、もう一つ連れて行って頂きたいところがあります。」
   「どこだ」
   「奈良です。」
   と言いますと、主人はしばらくして、
   「ぜいたく言うな」
   と申しました。
   神経も体も疲れ果てた主人に、こんなことを言う私を、あわれと思ってでもよいから、奈良へ連れて行ってくれるような、生きる力が出てほしい、との私の願いであり、また策だったのですが…。
   こんなにも弱った夫に対しては、これは、おろかな妻の暴言とでもいうべきだったかも知れません。
   先日、たまたま箱根へ行っての帰り、湯河原へおりてきて、偶然、かつて一泊だけだけれども、印象深い中西旅館の前を通りました。…(中略)
   あの朝の新緑の圧迫に疲れ果てた主人の姿と、赤ん坊を連れた、看護疲れの私の憔卒した姿とを、私はまざまざと見る思いがいたしました。
   あの時の赤ん坊が、この車の運転をしてくれています(三男 也寸志)。
   私は車をとめませんでした。今は箱根から東京へ帰る旅行者の私です。中西旅館はたちまちに過ぎ去ってゆきました。

   少し長い引用になったが、文さんの心の清らかさが横溢してるいい文章なので文末迄引いてみました。


   この頃の文さんは三男 也寸志の調布の自宅に住んでいたのだが、中野女史が猫好きなのを知っているので初対面の時には孫の麻美子ちゃんにポンタを連れて来させたりもしてくれたようで、ポンタは雄ねシャム猫、リリーという日本猫、ヤールというシェパード犬を飼っていたのだが、特にリリーは老猫で体の具合の悪い時は、夫人の炬燵の中に潜り込んでくるそうで、老猫の割には仔どもを産むのだが決して正常産ではなかったとの事。
   中野女史が伺った時も、産後が悪いのに、気管支炎を併発して重体になり、ホルモンや、サルファ剤の投薬をうけて、夫人の部屋の箱の中で闘病していたと言う。
   ヤールはガタイの大きい大型犬で立ち上がると中野女史よりも大きくて、少し大きくなりすぎた…と文さんもおっしゃってたのですが欲しい人に貰われて行き、後にコッカスパニエルのクーキーが住むようになったのだが、昭和43年9月11日午後5時過ぎに文さんは庭へ干し物を取り入れに立たれ、愛犬クーキーと遊び乍ら庭で倒れられ、珍しく在宅されていた也寸志氏に介抱されて午後5時25分、心筋梗塞のため、静かにひっそりと、68歳の生涯を終えられたのでした。
長男 比呂志と


息子らと


   今では研究も進み、芥川龍之介の生涯に幾つかの女性関係があったことも分かってきた事も事実だが、「図書」に文さんが書いたこの言葉は、重い。

…私たちの結婚生活は、わずか十年の短いものでしたが、その間私は、芥川を全く信頼してすごすことができました。…

   最後に優しいばかりの文さんではなく、優しさの中に芥川の胸中に突き刺さるような刃を示した賢妻振りを見せたエピソードを紹介する。
   これらの話は芥川研究の中でも比較的有名な逸話である。

   鵠沼海岸時代、…腸カタルを病んだり、睡眠薬の世話になったりでしたが、体の具合の良い時には、主人は夕方からでも、海辺へ行きました。…(中略)
   鵠沼海岸には松林があり、いろいろの枝ぶりをした松がありました。
   そんな所で足を止めて、「あの松の枝ぶりがいいね」と言います。
   私はすかさず、「ちょうどいい枝ぶりではありませんか」
と先手を打ちます。
   自殺をするのにも、枝ぶりの良い松の木がいいなどと平気で言ったりしますので、先手を打つのです。すると主人は急に黙ってしまいます。…


   …大正15年の初秋の或る日、私は部屋にいましたが、妙に悪い予感がして、主人が死ぬような気がして淋しくてたまらず、思わず二階へ駆け上がりました。
   主人は机に向かって、やせ細って坐っておりました。私は安心してまた階段を下りて来ましたら、すぐ手を鳴らして二階から主人が私を呼びます。私はためらいながら、また階段を上がって書斎にゆきましたら、主人は、
「何だ?」と言います。私は、
「いいえ、お父さんが死んでしまうような予感がして、淋しくて、恐ろしくてたまらず来てみたのです。」と言ったら、主人は黙ってしまいました。
   昭和2年9月に「文藝春秋」に掲載された遺稿「歯車」の中の、「六、飛行機」の終わりの方は真実です。