☆小津の性的表現2️⃣
 過去に二三度ばかりこの著作から引用して小津作品や小津の人物評を紹介してきた。
 それだけこの人の小津安二郎への見方に正鵠さを見出したからだが、小生が何故そう思ったか?
 それは小津そのものに反発していた若き日に助監督と言う立場で小津と直に触れ合い、その真意を正確に伝え聴いたと言う当事者性と、それを理解するのに歳を重ねる度に重くなっていったと言う事実にとても説得力があったからだ。
 高橋治は1953年昭和28年に東大を卒業後松竹に入社して新人助監督として鬱々としていたが、小津が撮影していた映画「東京物語」の助監督として先輩助監督の今村昌平の忌引の穴埋めとして急遽休暇中だった北海道の枯野から大船撮影所に呼び戻されたのだった。
 撮影所の若手助監督たちの中にあった現実から目を逸らし、伝統ばかり追求する小津に対する反発を内包しながら小津の撮影現場でも、ささくれ立った行動をして開き直りとも取れる態度を如実に示していた高橋に小津は、多分気づいていた筈だがだからといって殊更に冷たくされた感じはなく高橋の文章から感じる小津は実に色々と、若手の高橋たちに撮影手法や奥義を臆面もなく伝授しているように感じることができる。  
 高橋は冷静に小津の、或いはそれを取り巻くスタッフそして俳優陣の人間味溢れる行動や、言動をつぶさに体験し得難い印象を受けることになる。
 例えば「東京物語」では主演の原節子。
 彼女と監督小津との一種の"暗闘"はこの二人に付き纏う恋愛譚など吹き飛んでしまう程の相克なやり取りを示していたが、このようなことからそう言う流れとなったのかは…それはもう探りようもないことであろう。…
 以下は「絢爛たる影絵」からの引用である。

…原節子というと、"大輪の花"のようなという枕詞がよく使われた。だが、私の思い出す原節子は違う。背骨を挟んで二列にびっしりとトクホン(湿布外炎鎮痛剤)がはってあった。背中がうつる本番前には必ず私を手招きし、念を押すように、「高橋さん、背中、大丈夫ね」という原節子だ。「東京物語」は真夏の話である。原は純白のブラウス一枚で出演することが多かった。当時、衣装の下をすかして体の線を狙うような照明は使われなかった。薄物一枚でも衣服は衣服として撮す。背中のトクホンがうつる心配は絶無といっても良かったが、そこは演技の質といい、人気の高さといい並ぶ者のない地位にあった原の誇りが許さなかったのだろう。
大学をでて僅か半年では、プロになったとはいえ、まだ美女は美しさ故に眩しかった。所詮は素材と冷たく見ることは出来なかった。ましてや原節子である。
初めての日、トクホンの白さを見た時私はわれにもなく立ちどまってしまった。原が背中越しに振り仰いだ。「お願い、きをつけていてほしいの。」
あの、全国を魅了した音を立てて来るような笑いがその言葉に続いた。トクホンへの説明は一切なかった。
だが、二列で確か八枚のトクホンは原の癒しようのない疲労の深さを如実に感じとらせた。それがなんであったのか。小津の死に殉ずるかのように原はあらゆる公的な場から身を退いてしまった。…中略… あらゆる人との接触を頑なに拒む背後に何があるのか。それはもう探りようもないことだろう。しかし、誰にも疑いをさしはさむ余地のない事実がひとつだけある。小津安二郎あっての原節子であり、原あっての小津だったということだ。世に監督と俳優のコンビは少なくない。溝口健二と山田五十鈴。同じ溝口と田中絹代。黒澤明と三船敏郎。黒澤と志村喬。木下恵介と高峰秀子。小林正樹と仲代達矢。小津自身にも、笠智衆があり杉村春子があった。だが、二人のどちらが欠けても駄目であった例は小津と原以外にない。意外なことだが笠の演技賞は総て他の監督との組み合わせで得られた。この事実が示す通り笠は小津以外との仕事でも力を発揮した。しかし、原には小津以外にこれぞ原節子という仕事はなく、小津の戦後の傑作は悉く原によって作り得たものだった。
それだけの二人であれば、なにもかも呑みこみ合って、僅かな水洩れもない関係が想像される。だが、実情は違っていた。信頼を持つゆえの厳しさを、小津は原に対して常に持ち続けていたように見える。
「原さん、もう一寸こっちへ動いて」
厚田(キャメラマンの厚田厚春)が原の位置をずらすために体にふれたことがある。戻って来た厚田に小津が小声ででいった。
「色男だよな厚田家は。原さんの体にさわるんだから。俺なんか指一本さわれねぇ」
言いながら冷やかした小津が照れたように真っ赤になった。…
 もう一年以上前になるが、小津映画の性表現について記した。 
 あの時紹介し切れなかった箇所を引用してみる。
 「東京物語」で忌引休暇を取った今村昌平が小津の性表現について語る話は流石、映画人と言う視点である。

…大島渚が「青春残酷物語」を発表したあと、監督会の席上で小津は月森(松竹生え抜きの常務取締役)にこういっている。「なにかい。これからも松竹は筏の上で女のパンツ乾かす写真を作る気かい」
これは小津特有のアフォリズムなのである。小津は大島の才を誰よりも認めた。現に、大島が「日本の夜と霧」で経営陣と対立し、松竹を去った直後、日本映画監督協会が製作した、いすゞ自動車のPR映画の監督に起用している。
「どうだいあの剛速球。それにしても見事なまでのコントロールのなさ。金田正一だね、あれは。大物になるよ」
同じく「青春残酷物語」を評した小津の言葉である。二つの言い方に矛盾はない。現代の人間を描く場合、性という重大要素を抜いてはあらゆるものが平面化することを小津は知っていた。それ故に、正面切ってその問題に対決した大島を高く評価した。だが、松竹映画全体が話題になる監督会の席上では、長老の立場から、描写方法への問題提起を行なって見せたのだった。勿論、この席に大島はいなかった。
その大島は小津の性的な面をこういっている。
「よく小津さんの映画には下がかった冗談が出てくるでしょう。あれが僕には或る尺度になったんです。大人なんだなぁと思う。同時にどの辺まで映画で性的か表現が許されるのかを見定めるための尺度にもなりました。」
気がついたのは大島だけではない。NHKが放送したインタビューの中で、今村昌平は次のような趣旨のことをいっている。
"あの人が描いて見せるエロチシズムには到底立ち討ち出来ない。俳優のさり気ない所作の中に茫然とするほどセクシャルなものがこめられている"
大島、今村共に今や日本映画(史に残る)を代表するほどの監督である。しかも、二人とも手法、主題は異なるが、根の部分から人間の性的な面を掘り起こすことを試みる。偉材は偉材を見抜くのだろうか。
小津に「東京の宿」という作品がある。昭和十年、トーキー直前のものでサウンド版と呼ばれ、科白は字幕だが音楽が入る。
坂本武の失業者が女房にも逃げられ、息子二人を連れて職探しに歩く。木賃宿に泊りを重ねる中に矢張り宿無しで娘を連れた岡田嘉子と知り合う。坂本は旧知の飯田蝶子に助けられ職もぼろ家の住居も見つけるが、岡田は娘が病気で入院したために酌婦に身を落とす。その店で再会した坂本は岡田をなじるが、事情を聞かされ、盗みをして入院費を都合してやる。ほのかな交情の相手を助けることは出来たが、坂本は罪人として引かれてゆく。
「喜八物」の佳作のひとつで、当時の世相をリアルに描き出してはいるのだが、この作中の岡田の描写が凄い。坂本との心の通い合いを語る科白は一切ない。ただ、ひたすら岡田の腰の辺りを画面手前に置いて見せるに過ぎない。その視線が文字通り"視姦"を感じさせる。恐らく岡田の性的魅力をこれほどまでに引き出した作品はないだろう。その描写が愛の会話より余程生なものになって、坂本の渇え、岡田の孤独、両者の求め合いとして、見るものに伝わる。…

 高橋にして視姦の表現はなくは無いものの、草食系男子が蔓延する現代からすると、高橋の論が正しいと言う前提で考察するならば、この視姦的視線は現代においてはちっとも古びてはいないし、寧ろ効果的で重要な手法でもある。
 しかし、何もかもが御法度だった時代に既にそんな隠し味を忍ばせて日常を描く監督は小津以外にはいない。
無である。