☆戦前のヒットシングル
ディックミネの戦前の♫ダイナ 以外のヒット曲をと今回色々調べてみたが、数の多さ、作品の質の高さが他を圧倒していることに今回調べてみて改めて驚かされた。
テイチクレコードのSP盤はシェラック盤の中でも質が悪くそれは社長の方針だったらしいが、数回掛けただけで蓄音器の鉄針が盤の表面に減り込むことが実際にあった様である。
小生が復刻盤を買い出した頃もそうだった。
復刻LPは解説が他社の中ではどこよりも詳しいのに針音は何処よりも激しかった、そんな悪い音の代名詞だったテイチクだったが、しかし近年(とは申せ、かれこれ20年以内)出されたCD💿の音は格段に良音となって我々は度肝を抜かれた。
本日取り上げる流行歌系の歌の音も在りし日の粗悪品や或いはそれぞれのYouTuberの方の手持ちSP盤をノイズリダクションせずに原音そのままにしてアップしていることも多いのが正直見え隠れしている。
小生のチャンネル"RIN"シリーズ(全部で3つある)は動画そのままにステレオのスピーカーから出てくる音をモノーラルでただ録っているだけだが復刻LPやらSP盤そのままなんてのもあり、決して褒められた音ではないが、悪い👎音は自分の中では"ない"つもりではある。
悪い音=そのハードルはかなり低い。単に針音が激しいだけで聴き取り辛いから悪い音なのか?
昔、大瀧詠一がラジオで語ったことばが忘れられない。
「今聴けば悪いけどその当時の最高の条件で録られた音なのだから悪ろうはずがない」
この言葉は重い。
復刻盤はその元になるSP盤が鍵になるが、ダビングに際しどの様なNR(ノイズリダクション)…つまりノイズをどう扱うかはミキサーの腕、或るいはセンスとでも呼ぼうか。
或る時期までは闇雲に針音を消してテロンテロンの僅かなノイズに押し留めるやり方が一般的であったが、あれはその副作用として不自然なノイズ音がしたりするから小生は余り好きではない。
最近の復刻盤は針音を逆に残しても実に耳触りが良い音に聞こえる。
これは小生の元々好きだった音である。
時代がやっと俺に追いついた!(^。^)💦
この話はキリが無くなるので他に譲ろう。
1. 二人は若い:星玲子(Duet) 1935.6.22 Rec
或る世代までは認識している流行歌であり現在では多分40代の人でも知らない人もいるかと思う。
所謂、コミックソングであり大家の古賀政男も実はコミックソングが意外にも多い。
コミックソングと言わない迄もお座敷小唄の様なお調子唄である。
この時代テイチクレコードは日活や東宝になる前のPCL映画研究所と提携していたので映画と音楽のタイアップで映画を作ったりレコードを売ったりと言うウィンウィンなビジネスモデルを確立していた。
この能天気な歌も日活映画「のぞかれた花嫁」の挿入歌である。
古賀政男のこれは初めてのコミックソングであり古賀的にはジャズ唄いでも自然に歌えるものをと考えて作った積りだった。
ミネはジャズ1本で行きたかったらしく最初この歌の吹込みには渋っていたと言う。
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2. 貴方とならば : 川畑文子 1935.2.23
ディックミネの歌ではないが、これはディックミネがプロデュースした作品である。
この時代からアーティスト兼プロデューサーと言う現在の様な感覚でやっていたのはミネ位なものであろう。
その先見性に全く以って脱帽である。
川畑文子はハワイ生まれの日系三世だった。
3歳の時にロスアンジェルスに家族ごと移住した。
アクロバットダンスが得意な女の子だったがやがてショービズの世界で成功した。
RKOと専属契約を結びニューヨークのパレスシアターと言う槍舞台に一枚看板での興行にも成功、天才少女ダンサーの名を欲しいままにした。
パレスシアターには早川雪洲、三浦環に次ぐ三人目の日本人スターという名誉迄付いた。
1933年に御忍びの積りで家族と日本の土を踏んだが空港ではコロムビアレコード広報によって派手に迎入れられ日本でのスケジュールがすっかり準備されていた。
これはRKO側の策略であろう。
彼女の来日には女流奇術師松旭斎天勝が一枚噛んでいると言う説もあるがウィキなどではその辺りの話は全く記載されていない。
来日した川畑はコロムビアレコードで後の東宝映画副社長森岩雄のコミカルな歌詞で一躍アイドル時代を確立した。
♫三日月娘/いろあかり や同時代のジャズマンをも魅了した♫泣かせて頂戴 などコケティッシュな容姿と声、そして驚異のハイキックダンスなどのアクション面でも観客を魅了し公演の舞台はどこも長蛇の列だったという。
そんな人気が急上昇していた昭和9年の秋に本家RKOからアメリカに戻るよう要請が掛かったがコロムビアレコードとは9年末迄契約が残っていた。
文子は親しくしていたコロムビア録音部の竹中技師長の計らいでテイチクレコードへ移籍が成り帰国迄の4か月間に実に20枚分のジャズソングを録音した。
その内の半分以上はミネが訳詞や編曲と言う形で関わっており、実質的に彼女のレコーディングをプロデュースしている。
そう言えば聞こえはいいが、要は関係がデキていたとも言える。
ミネが残した自叙伝によれば、具体的な名前を挙げて肉体関係になったのは川畑文子、ベティ稲田、山口淑子ははっきり書かれてあった。
が、後年まだ相手が存命中にその様に自伝に関係を暴露しても訴訟一つ起こらなかったのだから決して後腐れ悪く別れてはいないと言うことであろう。
全く羨ましい限りである。
話が完全に横道に逸れたがこの♫貴方とならば は1929年にMGM配給のアメリカ映画「鴛鴦の舞」の主題歌♫I'm Following You が元うたであり訳詞をミネが書いたがいいセンスである。
命かけて 貴方こそ
私の恋人 何時迄も
あなたとならば しのびましょう
苦しみも 悲しみも
つらい浮世の 荒波越えて
二人で行きましょう 貴方と私
いのちかけて 貴方こそ
私の恋人 何時迄も
何という事はない歌詞だが、恋愛真最中の婦女子が聞いたら琴線に届く言葉なのであろう。
この歌は日本では1980年代に自由劇場が上演した「上海バンスキング」で歌われて話題になった。
吉田日出子の年齢を超えたコケットな魅力と相まって素朴なラヴソングが観客に受けたのだ。
当時の自由劇場版のサントラにもしっかり入っているので何かの機会に掛けてみたい。
1982年に出されたディックミネのジャズものばかりを集めたLPに吉田日出子が寄せた文がすこぶる奮っているので締めに掲げたい。
…つばめがヒューと飛んでいた銀座のみち
天井の高いダンスホール
上海へ行く船の上できれいなドレスに
着がえて海の風にあたっていたこと
そんな数知れない思い出が
ディックさんの歌声と共に今がその時の
ようにふつふつとわき出てくる。
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3. スイートジェニーリー:チェリーミヤノ 1935.3.9Rec
川畑"イヴォンヌ"文子は、その卓抜したダンス能力に加え数多くのファンに囲まれていた。
それはアメリカでも日本でもおなじであった。
それで川畑には幾人かの愛弟子が付いた。
その内の一人がチェリーミヤノである。
あどけなさがまだ残る日本語も辿々しいが、実にこの時未だ15才であった。
チェリーミヤノはやはり唄よりダンスのタレントであったがどうしたものか間奏でタップが入るのは川畑文子だ。
ゲストとなってはいるが、押しも押されもせぬスター川畑をタップだけで使うのは何という贅沢の極み。
そこで、想像を逞しくしてみるとやはりディックの女癖に原因がありそうだ、と言うのはディックの手の速さを警戒した川畑がわざとチェリーのレコーディングに監視役として登場したのではないか?と言うストーリーだがいかがであろうか?
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4.オーカラミヤ : マリーイヴォンヌ 1935.10.21
マリーイヴォンヌについては経歴不詳である。
持てる文献、レコード解説を観ても書いてはくれていなかった。
ネット検索に最後頼ろうとしたら、マリーイヴォンヌ 五井となっていたので読み進むまでもなく、飲食店の名前であった、というオチである。
唯一手持ちのレコード内ジャケに彼女のポートレートが載っていてカッコ書きには日本人名前が書いてある。
そういうことか…と納得した。
ディックはこの子も誘ったのだろうか?それか言い寄られたのだろうか?
バッキングはルーナダンスOrch 訳詞は別だが編曲はやはりミネであった。
ミネのプロデュースはこの後も続く。
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日活映画「緑の地平線」の中で軽快にミネが唄った本格的ジャズナンバーである。
この映画は勿論未見だが昭和10年公開のこの映画を知る世代はもう殆ど居ないのが現状ではなかろうか?
現在の超高齢者世代でさえ昭和初年代に生を受けた人達である。
昭和10年と言ったらウチの超高齢者の父親でさえ未だ2才である。
しかしこの映画の主題歌♫緑の地平線 という歌なら父親らの世代の人達でさえ知っているはずだ。
大阪のマイナーレコード会社タイヘイに専属だった黒田進を古賀政男が引き抜き芸名を楠木繁夫に変えて歌わせたら大ヒットしてしまった。
これも一種の音楽映画でディックミネはこの映画で♫夕べ仄かに と♫ユカリの唄 という古賀政男印の二曲を歌って印税がっぽり…。
前者はコンチネンタルタンゴ風でミネお得意の洋物楽曲で古賀政男の歩み寄りが伺える。
後者はコロムビア時代から古賀が得意としていたギター単音伴奏でギターの他にヴァイオリンが入りそれがジャンゴラインハルトの編成だからジプシー音楽風だが、途中に星玲子の詩の朗読も又、時代がかっていていい雰囲気であった。
しかし、ディックはやはりここぞとばかりのホットジャズナンバー仕立てにこの1910年代のアメリカ産小唄を見事にアレンジし直した。
因みにこの曲はよしもと新喜劇などのテーマ曲とも言える♫…ホンワカぱっぱ ホンワカぱっぱっぱー
というとぼけたあの楽曲もこの♫Somebody Stole My
Gal であり音楽は編曲次第で如何様にでもなる、という見本の様な演奏である。
1935年というジャズのなんたるかも殆ど流布していない時期にこれだけイカした演奏で自らボーカルを取るディックミネは恐るべき才能であったと言わざるを得ない。
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6. 白衣の佳人 : ディックミネ 1936.1.30Rec
時代は昭和11年に移る。
録音が上記日にちで発売が2月11日の紀元節なので所謂2.26事件直前である。
この事件については以前別項で概要を書いたがクーデターは未遂に終わったものの軍部の台頭の壮大なプロローグであったこととして史実的にも認知されている。
日本がデモクラシーを謳歌した本当の最後の流行歌であった。
あのクーデター未遂事件以後軍部色は濃くなり、日本の政治主導体制を骨抜きにして政治を抹殺し、国民を主導して好戦色を少しずつ色付けして国民を戦争に巻き込んでいった。
現在の安倍政権に同じ匂いを感じるのは小生だけではないはずだ。
そして、白衣の佳人である。
これも日活映画の同名作品の主題歌である。
所謂悲恋ものであり白衣…とは看護師のことか?と思ったらなんと修道女だった。
ストーリーは天才作詞家佐藤惣之助の詩でほぼ辿れるので謹聴願います。
ディックは古賀とのマッチングを最初の頃は嫌がっていたが、この歌のヒットにより歌謡曲も悪くない…と思い始めた由。なぜなら売れれば歌唱印税がしこたま入ってくるからだ。
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7. ワバッシュブルース : ディックミネ 1936.2.15Rec
とは申せ、ジャズはやっぱり辞められないディックミネであった。
1921年製のホットナンバーでサビのない32小節の典型的ブルースナンバーでこれは本国アメリカではフレッチャーヘンダースンOrchのレコードがよく売れた。
多分この曲をこの時期に録音した唯一の日本人であろう。
服部良一が和製ブルースを書いてじわじわとヒットするのはまだ1年以上先の話である。
ディックミネがどうしてこうもマニアックなジャズやブルースに敏感だったか?と言うと、大学卒で入った…いや、親により入らされた逓信省(現在の日本郵便(株))での鬱々とした日々に好きなジャズレコードを買込み、聴きまくったのが大きな遺産となったと言う。
確かにフレッチャーヘンダースンなどはジャズナンバーと言うよりも当時はダンスナンバーとしての認知度しかなかった頃である。
時代的にはアメリカでも日本でもそう変わりはない。
ミネは逓信省を時間ピッタリで上がりダンスホールへと一直線、流行りのカフェで酒を飲み女を口説いてホテルに設られた蓄音器でジャズを掛け、女を愛し酒を愛し、翌朝はホテルから出勤…何という生活が当たり前になっていった。
♫ワバッシュブルース での田沼恒久のテナーのソロにご謹聴!
♫ワバッシュブルース は↑ココをタップする
8. 愛の小窓 : ディックミネ 1936.8.7Rec
日活映画「魂」の挿入歌である。
岡譲ニ主演 星玲子 花井蘭子らが助演。
嘗ての不良学生だった男が有志の娘と結ばれる直前に不良団から娘が拐われる。
言わなければバレずに済むが娘を救い出すには親に自分が嘗て所属していた過去もばレてしまう。
最後の局面で彼女も自分の経歴もバラさなければいけなくなるが、それもクリアして目出度目出度。
ハッピーエンドとなる。
同じ映画の主題歌「男の純情」唄は藤山一郎。
古賀は悩みに悩んでそれまでの自分のパターンを全て捨てて苦労した末に曲を書き上げた、という。
一方カプリングがこれだったがこちらは肩の力が抜けた様な、スラスラと書き上げたような自然発生的な良さが全編から溢れていると思う。
佐藤惣之助の詞は時折おとずれる意味の破綻ごと魅力的でもある。
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9. ラモナ : ディックミネ 1936.11Rel.
素敵過ぎて失神してしまう。
ディックの選曲眼の確かさがモロに伝わる良い曲である。
この曲も1920年代に作られたティンパンアレーものだとは思う。
ポールホワイトマンOrch.の古いけどミント級のSP盤を持っている。
そちらは完璧なワルツだったがディックは軽く口ずさめるような、軽く歌い飛ばす様なライトでベタつかない唱法が魅力的である。
後年、ディックがかなり歳を重ねてからステレオで嘗ての流行歌をリバイバルしたアルバムでこの歌が選曲されていたが余程好きなのであろう。
哀切のメジャーコードで豪華なストリングスアレンジが泣かせる。
晩年に近い頃、NHKラジオ番組にゲスト出演されていたが特攻隊の基地に慰問に行って、前の晩に酒を汲み交わした若者たちが翌朝出撃の際に、その内の1人が「ディックさん、観て居て下さいね!」と笑顔で言い残して、10機編隊でアクロバット飛行をしてくれて、そのまま彼方に消えて行ってしまった…そのあとは涙声で何を喋っているのかも分からなかったが、そこにステレオ版のこの歌のイントロが被ったのだが深い感動を催した。
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10. 人生の並木道 : ディックミネ 1936.11.27Rec
日活映画「検事とその妹」の挿入歌だった。
主題歌の方は藤山一郎唄うところの♫聖処女の唄
だったが結果的にB面のこちらの方が大ヒットした。
その妹を演じたのが原節子、主人公の検事役は岡譲ニであった。
古賀政男の難解な小節をミネは後年になってテレビで唄う機会が増えても原調通り律儀に唄い続けた。
古賀と言う人はおかしな人でね…自伝の中でディックがカミングアウトした凄い話。
古賀政男は男色家だったらしい。
しかし、それでは体裁が悪いと無理矢理結婚した事があったが半年と続かなかった。
性格は女性で言葉遣いも女言葉が染み付いて居た様だが、人前で喋る時はそれを隠して居たようだ。
ディックが直接本人から聴いたところによると、仏壇返しと言う技をディックに教えたと言う。
何かと言えば、押入れの襖を開ける立ち位置に布団を重ね置きをする。二段目に上がって自慰行為に及びここ!と言う局面でさっき積んでおいた布団の上にダイブ!至福の快感を得られる…と言う訳だ。
ディックミネの自叙伝はその破天荒な生き様を余すとこ無く書き綴った本として共感するし、やり過ぎの感無きにしも非ずだが、裏芸能史としても実に楽しく読める。
結局、この一稿では収まらなかった。
戦前のミネのヒットシングルはまだまだあるので以降は次回に回すことにする。
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