☆創刊号 1982年4月20日発行
今なお元気なレコードコレクターズ誌。
今月号は細野晴臣の仕事…と題して細野さんの楽曲提供を中心にした特集ページが割かれて中々興味深い。
ここの所、11月号が細野晴臣の名曲ベスト100だったし、読み応えある総力特集が続いている。
レコードコレクターズ誌は1982年4月に創刊したのでもう37年の永きに渡って様々なアーティストのコンプリート化とデータの集積に邁進して来たことになる。
月刊になったのは創刊から約3年後くらいの頃だったからまだ中村とうようさん率いる前政権時代だったが、それまではジャズやボーカルと言った所謂ポピュラー盤を中心に取り上げてきたが、或る日突然に代変わりしてロック中心の雑誌になってしまったのだ。
当時の神保町TONYレコードの西島経雄さんは「あれは…実質的なクーデターだよ」と言ったきりその代表の交代劇については余り多くを語ろうとはしなかった。
それ以降雑誌の表紙を飾るのは常にケバケバしいロックアーティストが中心となってしまった。
それでもジャズ記事の特集も暫くは並行、両立させていた。
まだ小稿ではお目見えしてないが、ビックスバイダーべックの特集記事は1992年の3〜4月だったがこの時の表紙を飾ったのはクイーンだったはずだ。
然し…
その後、大瀧詠一という何処かで聴いたことがある名前が論陣を張ることに。
最初はフィルスペクター研究だった。
そして、ビーチボーイズでは山下達郎と言う論客が参入。
其れらは何れもCD💿リリースに連動していた。
やがて、彼ら自身の作品にもスポットが当たる。
そうなるとこれはもう…クーデターも悪くはない!と思うようになったりして…。
全く、現金なものだ。
長い間、わだかまりを持ちつつ見捨てられ無かった雑誌との小さな距離感が、溶解してゆくのが分かった。
私とこの雑誌との間にはそうした勝手なストーリーを作り上げていた事があった。
創刊号の頃小生はまだ高1であり、この創刊号から暫くは雑誌の存在すら知らなかった。
それが、その年の秋に今の住まいに越してきて以来ずっとあった駅前のよし善書房の平台にVol.1№5のペリーコモの表紙に「灰田勝彦」の文字を見付けるが早いか、兎に角奪ひ取る勢いで其れを買い、貪り読みをしたものだった。
以来、その頃はまだ買いそびれていた№1〜4を買い足すことなど容易だったが、今ではこの辺りはかなりなレアアイテムである。
昨日も神保町をぶらりとしたが見た限り90年代前半のものしか見当たらなかった。
そんな貴重な創刊号、いつもの如く画像に沿って解説して行こう。
先ずは表紙。
キャブキャロウェイは編集長中村とうよう自らが健筆を振るう「全LP」という所にコレクター魂の気概を感じる。
ザビアクガートは最後から見るページに掲載。
編集長中村とうようはラテン系に強いので創刊号で取り上げるには納得的だが日本国内でリリースされたSP盤だけの特集と言うのだからマニアックである。
執筆者は大森茂。
SPマニアで有ろう。
表紙と目次でこれだけワクワクさせられる雑誌は今でもない。
最初のメモランダム欄冒頭に中村編集長の「ごあいさつ」が掲げられていたので全文を掲載した。
そして創刊号から連載していた故 色川武大さんの「命から二番目に大事な歌」第1回。
色川さんが子供のころ観たと言うアメリカ製ミュージカル映画フレッドアステアの「トップハット」の中で雨中の乗馬クラブ内でジンジャーロヂャースにアステアが告白するシーンで歌い踊った♫イズント ジス
ア ラヴリー デイ が秀逸だと言う。
歌に続いて2人のダンスになるのだが色川さんの"ジンジャーの踊りについてのユニークな評価が書かれているので以下に抜粋する。
…私は他人が言う程巧いとは思わない。正統な踊り手に比べたら、いい意味のごまかし芸だったと思う。
ただし、タイミングにメリハリをつけるセンスがすごくよくて、ビートがあった。その点では貴重な才能で、圧倒的にアステアがリードしているのに、五分に見えた。踊りの上手い相手女優は後年にいたけれども、一番ツボにはまっていたのはジンジャーロヂャースで有ろう。
この二人のコンビは長く続いたけれども、私生活では二人は不和だったと言う。私の想像に過ぎないけれども、ジンジャーロヂャースは自身の踊り手としての限界を承知していて、ダンス女優になるか、演技派に行くか、いつも迷い、中途半端な気持ちでいたのではなかろうか。にもかかわらずこのコンビは長く受けて、彼女はとうとう演技派女優としては極め手を作れず、アステアの相手役としての名にとどまった。その辺も面白い。
ついでに言えば、アステアの唄は、逆に、やはりいい意味でのごまかし芸だと思う。タイミングと小節で味を出している。そのうえに、唄う曲が総じていい曲ばかりである。アステアが映画で唄った曲は、いずれもスタンダードナンバーになったと言ってもいいほどである。ただし、アステアが唄って一般にヒットした唄は一曲もないが。…
続いては長期に渡り連載された野口久光渾身の「私とジャズ」。
後にタイトルを変えて大部の単行本として売り出された。
その栄えある第1回目は「ジャズと映画ーーこの半世紀、ハリウッドはジャズに愛情も関心も示さなかった」
とかなり辛辣気味…。
その辛辣過ぎるタイトル通り、ハリウッドがこの時まで真っ正面からジャズという音楽を真摯に取り上げたものは1本もないと断罪する。
少なくとも2、3の例外があったとしてもそれはハリウッドの映画人の企画、製作ではなく、外部からの持ち込み企画だ、とシビアである。
野口さんが唱える2、3の例外とは以下の作品を指す。
☆ Black and Tan 1929年 監督ダッドリーマーフィー
☆ ST. Louis Blues 1929年 監督 same
☆Jammin The Blues 1944年 監督ジョンミリ
製作ノーマングランツ
最初のものはデュークエリントン楽団主演で当時ニューヨーク ハーレムにあったコットンクラブに専属出演していたデュークエリントン楽団の演奏風景はコットンクラブでロケーションされ撮影されて1984年のハリウッド映画「コットンクラブ」で監督フランシスコッポラが大いに参考にしたのがこの映画だったらしい。
二番目の映画はブルースの皇后と言われたベッシースミスの唯一唄う姿が記録された映画であり資料的にも貴重である。
ラストは小生が愛して止まないレスターヤングが主役級で出演した短編映画で、写真家ジョンミリはポークパイハットを被ったレスターの姿を俯瞰撮影してクレーンで思い切りアングルを下げテナーを斜に構えて吹くレスターの姿を印影を湛えた素晴らしいショットで捉えていた。
レスターと共に映り込む演奏者たちの中にはハリー"スイーツ"エディソンのtp 人気ブロウの名手イリノイジャケーts そして名手バーニーケッセルg ビッグシドカトレット、ジョージョーンズds などこの後ノーマングランツ主催で興行的にも成功裡に終わったJATPの主要メンバーらであった。
1944年度アカデミー短編映画部門にノミネートまで行った。
次の記事はこれも今となっては大変貴重な"レコード集めて30年"と言う座談会のルポである。
聞き手は中村編集長で今でも矍鑠としていらっしゃる当時新宿西口でコレクターズを営んでいた岡郷三さんと神田神保町のトニイレコードの今は亡き西島経雄さんとで闊達な中古レコ屋事情を喋っているが、小生はこの2人の薫陶を受けたことを誇りに思っている。
岡さんのお店コレクターズは青梅街道沿いにあったが区画整理の憂き目に遭いその後は河合塾になって今はもう影も形もない。
そこで下働きをしていた大原さんはその後水道橋ROOTを開業していたが、今年の夏に店は畳まれた。
一方のトニイレコードの方は現在ではお店はビルごと一新されマッサージの店舗が入っており、ここは数百メートル神保町交差点へ寄った同じ白山通り沿いでやはり後任の真尾さんと言う青年がトニイ魂を静かに湛えて営業している。
小生の今年の重大記事にこの2店舗との再会、撤退は確実に入る。
記事中の岡さんとトニイさんのスナップショットはそのままタイムスリップしたかのような貴重な写真である。
次回からはいよいよ雑誌本来記事の紹介である!